自分を改善し、進歩し良くなろうとしているのは私であるのか
自分を進歩させ良くなろうとしているのは誰か、それは「私だ!」と私を詐称しているところのマインド・思考ではないか
真の私であるのなら、既に完全であり、全体であり
この真の私であるならこれから良くなろうと、藻掻いたり求めたりすることはないだろうからだ
自分を見守るのだと称して「自己観察もどき」をしているのは誰か、それは私を詐称しているマインド・思考なのではないか
だから自己が主体と客体に分裂しているのではないか
真の私であるのなら、決して見る私と見られている私に分裂しているはずがないからだ
内と外は分離しておらず、主体と客体に分離しているはずがないからだ
観察者と観察されるものに分かれているはずがないからだ
記憶し、感覚し、自分以外の他人を知覚し、経験し、対象認識しているのは、私を詐称している思考・私なのではないか
真の私であるのなら、五感や記憶や体験や知覚や認識という「主体−客体」という分裂状態にあるはずがない
他人を自分ではないものとして対象認識するはずがない
アドヴァイタの方々の言っていることは分かるがそれは悟った方の言うことで、実際のあなたの現実はこうなんだとか
あなたの現実の進化発展段階はこのレベルであり、この階梯にあるのが、現実のあなたであり、あなたは徐々に進歩している
だからこれから瞑想して修行して真我と繋がるのだ・・・・などと言い続けられているこの私とは、誰なのか
それは・・・私を詐称している根源からのマインド・思考であり、わたしではないものではないか
真の私であるならどうして進化したり、過去現在未来という時間の中にいるのだろうか
そしてその私ではない私であり、自我であり、行為していると思っている私とは?一体誰か?
ニサルガダッタ・マハラジの言われるように
マインドの領域の中で、見守るものがこの根源からの「マインドという思考・私」とに接触したために
同じように思考である自我が脳内(マインドの領域内)で見守るものから発生したのではないか
真の私からの→見守る者・観照者が→<脳内で>根源からの映像である肉体と出来事と思考とに繰り返し接触し
映像とその記憶を見たために
その見守る者から派生した想念形態・エレメンタルが「私・私のもの」という感覚と自己意識を持ち始めたのだ
(それが自分が行為していると錯覚している自我なのではないか)
そして、この見守るものが、その自我を自身と自己同一視してしまった為に混乱が発生しているのではないか
私達の現状とは見守るもの(鏡)に、その見守るものが生み出した想念形態(自我)がピッタリとくっついている状態なのだ
その想念形態(自我)が、自己意識を持ち脳内の記憶を使って
脳内で起こっている行為と出来事と思考や知覚を自分の、自分が行為しているのだと言っているのだ
脳内でのこの見守るものからの反映である自我とその働き、
それがこの知覚している私であり
自己超越を求めている実体ではないだろうか
それが行為していると思い込んでいる「想念である実体」ではないだろうか
だから
この私こそが、現実の私だと言い続けているのは、私を詐称しているマインドなのだ、
肉体と出来事と思考と経験
それらは脳内で起こっている根源からのプログラム(肉体・行為・出来事・思考・感情・記憶)ではないだろうか
そしてそれに反応している
見守る者からの反映である自我も
同じ根源からの見守る者を経由した思考であるプログラム⇒想念形態ともいえるのではないか
それは
鏡である見守る者・私が
「私と私のもの」だと主張し続けているマインド(思考・記憶)のことを
脳内で見たために発生している「見守る者の想念形態」に過ぎない、それは思考でありその想念体の自己意識なのだ
見守るものは決して「私」でもなく「私のもの」などではないとおもう、思考や記憶ではないと思う
「私・私のもの」それは自我・サイコノエティック体と呼称されて
鏡である見守る者に
へばりつき覆い被さっている想念ではないのか
この見守るものからの想念形態である「エレメンタル」が
脳内で
根源から起こっている(上映されている)肉体と、出来事と、運命とに
反応して、叫ぶのだ
「私が行為している」「私が考えている」「私が生きている私の人生だ」と、「私が頑張っている」「私が経験した」と
しかし
事実はそうなのだろうか?
映像としての
行為している肉体が、起こっている出来事が、運命が
脳の中で上映されており
それを
この見守る者からの想念形態である自我は
自分が行為していると
自分の記憶だと言っているのではないか
クリシュナムルティーの言葉
「自由がないとき選択があり
自由であるとき選択はない」
以下はラマナ・マハリシと質問者の対話です
(ラマナ・マハリシの秘教哲学体系より抜粋させていただきました)
● 私は及ばない
“達成は困難だ。”とか、“私など悟りには及ばない。”というような全ての考えは止めるべきである。
それらが、障害になるからである。
それらは偽の自己、つまりエゴによって生み出されるのだ。
それらは真実ではない。
あなたは実在であると言う事を疑ってはならない。
そういう風に理解しなさい。
質問:「それでは、誰が神であるのか?」
ラマナ:「心の目撃者です。私の心は私自身、つまり魂によって目撃されています。」
「それならば、あなたが神である。」
聖典群もまた述べている。全ての目撃者であり、全ての被造物の中に隠されており、絶対の全てに浸透する、
全ての内部の自己である唯一つの神が存在すると。
7、「あなたに光を与えているものは何か?」
「それは昼には太陽で、夜には照明です。」
「その光を知る光は何か?」
「それは目です。」
「それを知る光は何か?」
「心の光です」
「その心の光を知るものは何か?」
「おお、それは私です。」
こうしてグルは答える。
「この様に、あなたは光の中の光、”私は在る”である。」
8、ハートの洞窟の中心にブラフマンが全くひとりで”私は私である”という自己自覚として常に輝いている。
心を自己の中に沈ませる自己探求または、呼吸のコントロールを通してハートの中に深く潜り込む事によりハートに入り、
自己に固く張り付く事を理解しなさい。
9、ハートの蓮華の中に不動で純粋であり、”私”という形である意識が見出される。
どの様にして見出されるのか? エゴを寄せ付けない事によってである。
それによって知識に到達する事ができ、その知識が確実に導く所の解放を見出すだろう。
10、肉体は瓶と同様不活発である。 それは”私”ではない。なぜかといえば意識を欠いているから。
一方”私”は形の無い眠りの中にさえ存在する。これらを認めなさい。
「私は誰で、どこから起こってくるのだろうか?」と探し、そこにとどまっている人のハートの中に
主アルナチャラが”私”として輝き出る。
16、心の静止のみが、常に存在する解放であるというのに、心の活動なしに獲得できない不思議な力に心が向かっている
人々が、どのようにしてあらゆる種類の心の動きの静止である自由の至福に溶け込む事ができるだろうか?
17、地球の重荷は神に支えられている。同様にそれに耐えているように装っているエゴは塔に彫刻された重さに耐えている
様に見える肖像に似ている。
誰の過失だろうか?
電車に乗って旅行しているとき、頭の上に荷物を載せて苦労を感じる人がいるだろうか?
18、腹部の上、乳首の間、胸の部位に6つの違った色の器官が見出される。
右側には、胸の中央から2本分の指の広さ程離れた所に、スイレンのつぼみに似たものが置かれている。
これがハートと呼ばれている器官である。
19、それは逆さになっていて花は閉じている。
そしてその芯の中に小さな穴がある。
その中には最も深遠な暗黒が見出され、執着やその他はここに含まれている。
ここにはまた全ての重要神経が集中されている。
そこは生命と、心と、光の座である。
20、ハートの中に”私”として輝いている主が、主グヘサとして賞賛されているのだ。
「洞窟の中の主が私である。」と絶えず瞑想しなさい。
そしてあなたの肉体感覚の中でその中に静止しなさい。
この強化により肉体神話は消滅する。
闇が輝く太陽によって消散してしまうように。
21、その時、ラーマは尋ねた。
「おお、聖人よ。全てを映す広大な鏡である宇宙の全生物のハートとは何ですか?」
ヴァシシュタは答えた。
「親愛なる求道者よ! 全生物は2つのハートを持っていて、本質的なものと本質的でないものがある。私から学びな
さい。」
22、胸に置かれているハートは本質的ではない。それは肉体の一部である。
意識それ自体であると主張するものが本質的なものである。
それは内側でも外側でも内部でも外部でもない。
これが真のハート、つまり宇宙である。
23、そのハートの中には全被造物が映されている鏡が存在し、それは貴重なもの全ての宝庫である。
この意識全体のみが全生物のハートなのであって、瓶の様に不活発で腐りやすい肉体の器官にはこの宝はひとかけ
らも見出す事はできない。
24、それなので、心の傾向性と生命力の流れの制御は次のように効力を発揮する。
心を完全に、ハートである純粋意識に溶け込ませる事によって。
25、ハートの中に永続的に堅固にとどまり、そこで絶え間なく「私は、永遠の意識であり、常に自由であり、全ての属性を
欠いたシヴァである。」と瞑想する事により、心の執着を避けなさい。
31、乗り物の中で眠っている人にとって乗り物の動き、静止、車庫入れは、それらが起こっている間は、安らかな内部において
である。
その様に仕事をしなさい。もう一方で賢者にとって眠りとは彼の骨格つまり地上での死すべき肉体の乗り物の中での
休息である。
32、目覚め、眠り、夢の3層からなる状態の中に生きている人はあの境地、第4番目の境地を“超越”とか“目覚めた
睡眠”とさえ呼ぶ。その境地のみが実在である。
その境地の中で他の状態が来ては去っていき、それゆえ無駄なものなのである。
実在は絶対であり全てを超えている。
33、ジュニャー二を弁解してサンチタ・カルマ(未来に起こるであろうカルマ)と、アガミャ・カルマ(現世において蓄積されつつ
あるカルマ)はないが、プラーラブタ・カルマ(現世に起こっているカルマ)があると説明するのは賢くない人の機嫌を取る
為のえさである。
3人の妻は夫が死んでしまったら妻としては残らない様に行為者である感覚がうしなわれてしまったらいかなるカルマも
残らないだろう。
34、無学な人の束縛は妻と子供から成り立っている。知識を溜め込みすぎた人の束縛はそれらではなく、学んできた無数の
書物という家族である。
それらが解放への道の障害物となってしまっている。
35、よく勉強しているが、自分がどこから出てきたのかを探ろうとしない人々が来て、私は彼らの額から恐ろしい運命の徴を
ふき取るのだ。
学問にどんな善い事ができるのだろう? その様な人々は、ただの蓄音機です。
彼らの口からは、うるさい空論が発せられます。
● どんな名前や形を祈ってもかまわない。それは全てに浸透している至高のものを見出す方法に他ならない。
君が無垢の彼に真の自己の意識を成長させ、幸福にみちた平安であるそれに溶け込まん事を!
この様にして完全な悟りは見出される。
● 神はそれぞれの小さな知性の中に輝いていて、それを彼の全能の炎によって照らしている。
知性を内向させ、無限であり、光の中の光である神との完全な結合の中にとけいる以外にどの様にして知性は彼を知る事
ができるだろうか?
● 肉体がそれ自身を“私”であるというのではない。眠っている時に自分は存在しなくなってしまうという人は誰も居ない。
単一の根源的思考“私”が生まれた後のみに現象世界が現れる。
その同じ“私”の源は最も鋭敏(微細)な心の中に見出されるはずだ。
● エゴが起こった後に、全ては起こり、エゴが沈んでいくと全ては消えてしまう。
それなので全てはエゴの形に他ならない。
それならばおお、探求者よ。エゴを見出す熱心な探求とは、ここで我々を束縛する全ての執着をあきらめる事であるという
事を知りなさい。
● 生まれたままの新鮮さでああって、エゴが死んでしまって、自己を悟った、幸福に満ちている聖者にとって、果たしたり、達
成したりするべき何が残されているというのだろう。
彼らは自己以外の何ものにも気付いてはいないのだ。
心が世界に向かってしまっている人にはその様な完全な境地は想像すらできないのだ。
● 形があり、形がなく、あるいはどちらにもなる事のできる解放された境地に関してここで荘厳な真理を学びなさい。
エゴの形つまり全ての思考の根源を消滅させる事、が真に救済なのである。
それゆえ、おお探求者よ、自己を悟りなさい。
● “私”が最早現れなくなった境地が実際に”それ”である事なのだ。
“私”が真の私に溶け込むまで「この“私”がどこから沸き起こってくるのだろう?」という不屈の探求を続ける事なしにどの
様にしてその境地に達する事ができようか?
“私”という思いの溶解なしにどの様にして自己を悟り、自己になる事ができようか?
● 世界は賢者にとっても無知な人にとっても現実である。
しかし無知な人にとって実在は世界の中に限定されているのに対し、賢者にとって実在とは形がなく、それ自体で完結して
いる基本材料なのだ。
これが二者の違いである。
■ 仕事が神への奉仕
マハリシが丘を下っていった時、何人かが、掃除をしていた。
そして彼らの一人が仕事を止め、マハリシの前に平伏しようとした。
マハリシは「自分の義務に注意深く従事する事が真のナマスカール(注:ナマステの正式名称)なのだ。自分の義務を注意
深く行う事は神への最高の奉仕なのだ。」と言った。
■ 私は行為者ではない。
活動は続けなさい。それらは純粋な自己には影響しない。
困難は人が、「私は行為者である。」と考える時にある。
高い力が全てを行っているのであって、人は単なる道具である。
もし人が、その立場を受け入れるなら、彼は問題から自由になる。
■ 仕事
Q、他の人より頭を使わなくてはならない時、どうすれば私の心は落ち着く事ができるのですか?
私は学校の校長の仕事を放棄し、人気の無い所に行きたいのです。
A、いや、あなたは今居る所に残り、仕事を続ける方がいいだろう。
心に力を与え、それらの活動の全てを可能にする内部の流れは何だろうか?
自己である!
だからあなたの活動の真の源は自己なのだ。
仕事の最中にもその事に気を付け、忘れないようにしなさい。
仕事をしている時にも、心の背景に集中しなさい。
それをする為には急いではいけない。
自分のペースでしなさい。
仕事中でも真の性質が生きている事を想い続けなさい。
そしてそれを忘れさせる焦りを避けなさい。
入念になりなさい。
瞑想を訓練しなさい。
そうすれば、仕事を支える自己との真の関係に気づくようになるのだ。
■ 社会改革
Q、バガヴァンの社会改革への意見はどのようなものでしょうか?
A,自己改革は自動的に社会改革をもたらす。あなた自身の努力を自己改革だけに向けなさい。
社会改革はそれ自身が気を付けるだろう。
■ 他者の無知
Q、他者の霊的無知を取り除くにはどうすればよいのでしょうか?
A,あなたは自分自身の無知を取り除いたのだろうか?
あなたの質問を自己探求に向けなさい。 あなたの中に据えられている力が他者にも機能しているのです。
■ 神に任せよ。
全ての目的、抱負、人間性への奉仕の願望、社会改革の計画
――それら宇宙を支えている宇宙的創造力の上に投げ捨てなさい。
彼は馬鹿ではない。彼は必要とされる事をするだろう。
あなたは“私はこれをしている。”という感覚を取り除いたのだろうか?
エゴイズムを取り除きなさい。
あなたが、改革に影響する人だと考えるのを止めなさい。
それらの目的を心の中にとどめなさい。
■ 息子の死
Q、人の死後の状態を知る事はできるでしょうか?
A、それは可能である。しかし何故、それを知ろうとするのか?
Q、なぜかといえば、私の理解の水準では、私の息子の死を真実とみなすからです。
A,私という想いが起こった後に自己と肉体の間違った同一視が起こるのだ。
あなた自身を肉体と考えるから他者に偽りの価値を置き、彼らを身体であるとみなすのだ。
あなたは息子が生まれる前に、息子の事を考えただろうか?
彼のことを考えている時に限り、彼はあなたの息子なのだ。
彼はどこへ行ってしまったのだろう。彼は彼が起こった源に帰っていったのだ。
彼はあなたと一つなのである。
あなたが存在する限り、彼も存在するのだ。
真の自己を見れば、この身体との混同は消えるだろう。
あなたは永遠である。
他の人々もまた永遠である事が分かるであろう。
この真理がさとられるまで、誤った同一視の為の悲しみがいつもあるだろう。
■ 妻の死
肉体の感覚器官から見る事を止め、全てのものを彼自身の自己として見始めた人にはどんな種類の悲しみもない。
妻の死の悲しみは真の愛を示していない。
外部の対象物と形への愛は真の愛ではない。
真の愛は常に彼自身の自己に住み続けている。
死とは二つの誕生の間に入る眠りである。
それは丁度、眠りが二つの目覚めの間に介入して、二つの目覚めが一時的である事と同様である。
“妻は夫の半身である”というサンスクリットのコトワザに従えば、疑いなく、妻の死は夫にとっても悲しい事である。
しかしもし人がアートマの次元で考え始まるなら、悲しみは全く存在しなくなる。
聖典によれば、妻はいとしい存在である。
なぜなら、彼女は夫の希望に従って夫を喜ばそうとするからである。
もし、これらがアートマンの為の喜びだとすれば、どこに悲しみがあるだろうか。
それにも関わらず、真の知識を垣間見た人々でさえ、このような事柄が起こると心の平静を失うのだ。
睡眠では、人は幸福である。
自己は睡眠では幸福であり、妻を知覚しない。
しかし、今の目覚めた状態では、自己は幸福に睡眠しているのに、人々は世界の対象物の存在により、幸福や悲惨
を味わうのである。
■ カルマ
何事かが起こると、我々はそれを何か、あるいは誰か他の人のせいにしがちである。
しかし、事実は我々の経験する事は我々自身によってすでに造られて来たのである。
我々に相応しいもの以上もそれ以下の何ものも起こらない。
他の人は我々に何をする事が出来よう。
我々に起こる事は他者に責任があるのではない。
他者は我々にいずれは起こる事を起こしている道具にすぎない。
信仰により我々を強くし、恐怖に圧倒されないようにしなければならない。
何が起こっても、プラーラブタに従って起こったのである。
邪悪な意図と邪悪な行為はその行為者にはね返るのである。
個人としての人間は神の目的の為に彼らのカルマを苦しまねばならない。
神はカルマの結果を操作する。
神はそれに何も加えもしないし、取り除く事もしない。
■ カルマの障害
Q、もし、瞑想の努力は過去のカルマを通して妨げられるのなら、どういう対処法があるのでしょうか?
A,この様な空想的な怖れに自分を沈めることは自分を台無しにする事である。
運命と過去のカルマは外部世界に関係する。
大胆に自分の中に潜りなさい。それらはあなたを妨げないだろう。
重大な障害を形成するものは、障害の事を考える事である。
我々は全て、我々の源へかえらなければならない。
全ての人間はその源を探していて、いつかはそこに行かなければならないのである。
我々は内部から出てきたのだ。
我々は外側に行ってしまった。
今度は内側に戻らねばならない。
■ 心の集中からのすべり落ち
Q、 心は我々の支配からすべり落ちていきます。
A, そうさせて置きなさい。 その事を考えるのを止めなさい。
あなたがそれに気づいた時は、内部に引き戻させなさい。
それで十分である。努力なしに成功する人は居ない。
心の制御は人の生得の権利ではない。
■ 私はあらゆる哲学を知らなかった。
私はティルバンナマライに来て人々が私のところに来て質問をせがまれるようになるまで、これらの哲学的な問答や
論議論争を全く知らなかった。
それまでは自分はそれらに一切関わって来なかったのだ。
それら全ての哲学的システムは悟りという一つの単純な真理から発達してきたのだ。
それゆえ悟りを探しなさい。ヴィチャーラの修行をしなさい。
そして哲学的システムや問題にかかずらわるのを止めなさい。
■ 魂や個我は言葉に過ぎない
魂、心、個我は単なる言葉に過ぎない。意識のみが真理である。
■ この宇宙は映画である
悟った人には、この外部の宇宙は映画である。それは自由であって、そのパフォーマンスは昼も夜も続く!
悟った人は丁度普通の人が映画の画面や登場人物が架空で真実の人生の中には存在しないと知っているように、
対象物や人々が架空の現われと知りながら、その中に住み、働く。
しかし普通の人は日々の生活の外的な対象物を真実とみなすのだ。
■ 降服
初めは、完全な降服は不可能である。部分的な降服は多分全ての人に可能であろう。
時が熟せばそれは完全な降服に導くであろう。
もし部分的な降服も不可能だったらどうなるか?
そうしたら心の平安は無い。
心の平安は降服のみによってもたらされる。
■ 私は及ばない
“達成は困難だ。”とか“私など悟りには及ばない。”というような全ての考えは止めるべきである。
それらが、障害になるからである。
それらは偽の自己、つまりエゴによって生み出されるのだ。
それらは真実ではない。
あなたは実在であると言う事を疑ってはならない。
そういう風に理解しなさい。
■ 帰依者の資格
Q、私は帰依者に値するでしょうか?
A,誰でもなれる。精神的食物は全ての人に平等で、誰をも拒まない。
■ 隠された磁石
自己は我々の内部にある、強力な隠された磁石のようなものである。
我々は我々の意図によって自己に近づいていこうとしていると想像するが自己が我々を段々とそれ自身に引き付け
るのだ。
我々が十分に近づいた時、それは我々の他の活動を終わらせ、不動にする。
そして、我々の個人的な流れを飲み込み、個性を殺すのだ。
それは知性を圧倒し、全存在を飲み込む。
我々はそれに瞑想し、それに向かっていると考えるが、事実は我々は鉄くずのようなものであって、我々をそれ自身に
ひきつけているのは、アートマンという磁石なのだ。
■ 最高の知恵は精妙である。
最高の知恵は殆どの心にとって精妙過ぎるので、世界、神、身体、霊的進化などの哲学的システムが与えられねばなら
なかったのだ。
なぜかと言えば、人々は単純な一つの実在つまり自己の真理を信じるより、それらの事を信じる方がやさしいと考えるか
らだ。
そのように、輪廻、天体、死後の生その他は、真実ではあるが、低い見地から見たものなのである。
■ 悪い性質
全ての悪い性質はエゴの周りに結び付けられている。エゴが去る時、悟りは自ずから明白である。
自己の中には良い性質も悪い性質もない。
自己は全ての性質から自由である。性質は心にのみ付随する。
■ ハートの小さい穴
全宇宙はハートの中の一つの小さい穴に結合させられている。
その穴は常に、閉じたままでヴィチャーラによって開けられる。
その結果は“私―私”意識、(I AM THAT I AM)つまりサマーディーである。
■ 成熟していないポット
Q:シュリ・ラーマクリシュナがしたようにイシュワラと話す事はできるでしょうか?
A:我々が話し合う事ができるなら、イシュワラとも同じ様に話し合えないはずはないだろう。
Q:それなら何故、それは我々には起こらないのでしょうか?
A:それには心の純粋さと強さ、瞑想の訓練が必要である。
Q:それらの条件がそろえば、神は明白なものになるでしょうか?
A:神の明確さはあなたの実在の状態と同程度の実在なのである。
言葉を変えるとあなたが、目覚めの状態において自分自身を肉体と同一視すると、あなたは粗大な対象を見る。
精妙な体、あるいは夢見状態ではあなたは同程度の精妙な対象を見る。
深い眠りにおいての同一視の欠如の状態では何も見ない。
対象物は見る人の状態に応じて現れてくるのだ。
神のヴィジョンにおいてもそれと同じである。
神の形に対する瞑想を長く続けているとそれは夢にも現れてくるだろうし、後には目覚めにも出てくるかもしれない。
■ エゴイズムを取り除く事によって、神はあなたを神の目的を遂行する為の道具として使うだろう。
しかし、以前との違いはあなたはそれらをしている意識を持たないだろう。
神の意志はあなたを通して働いているだろう。
そして仕事を駄目にする利己主義も持たないだろう。
さもなければ、名声への欲望が残り、人は人間性の為ではなく、個人的自己に奉仕する事になってしまう。
■ リシの恩恵
Q, 世界が重大な問題であふれかえっている時に、あなたの様な人が何もせずにじっと座っているのは有益な事で
しょうか?
A, 自己実現をした存在は世界に恩恵を与えずにはいられない。
彼の存在自体が世界に最高の善を与えるのだ。
■ リシの力
リシがある場所に座っている事で、全ての事が彼によってなされるのだ。
彼は戦争を引き起こしたり、終わらせたりする事もできる。
しかし、彼は世界には宇宙的カルマ的な過程が続いている事を知っているので、それにむやみに干渉しようとはしな
いのだ。