バーナデット・ロバーツの新刊について
Aさん :こんにちは、先日、私の35年来の親友のTさんからバーナデットロバーツの新刊「神はいずこに」(日本教文社刊)という本を送っ
てもらったのですが、とても素晴らしいので是非とも君にも読んでもらいたいんだが
B子さん:ありがとう、どんな内容なのかしらね
Aさん :魂の闇夜を経てのキリストの復活を彼女(バーナデット・ロバーツ)に実際に起こったことを、詳細に述べているので
非常に役に立つと思うんだよね
B子さん:バーナデット・ロバーツってどんな人かしら
Aさん :僕たちの間では有名な、前作「自己喪失の体験」の著者で、
若いときには修道院に入られ、その後、紆余曲折を経て結婚され
お子様も4人もおられ、昔は教鞭を執っていたという経歴から、キリスト教的な傾向もあるんだけど、キリスト教的と言うより
キリスト的であって、僕には禅や非二元のアドヴァイタの覚者とまったく同じように感じられるね
B子さん:そ〜ね宗教はどこでもいいのよ、問題は中身だから、その「・・・教」という枠を外して、中身だけを取り出せば、物理の世界が
國によって異なると言うことはないように、真実や真理は決して「・・・教」という外見によって違うはずがないものね
むしろ、その真実や真理が宗教によって違うとしたら、宗教そのものが必要ないという事よね
Aさん :そうなんだとおもうよ、真理や真実や絶対なるものは宗教によらず「・・・教」の違いによらず真理なのであり、真実であり
絶対なんだよ
その点、このバーナデット・ロバーツの言っていることは宗教の違いを乗り越えて絶対なるものを指し示していると言え
るよね。物理や化学と同じように普遍的で人類共通のプロセスを示している貴重な本だとおもうんだ
B子さん:で、彼女の言うその魂の闇夜と言うことは?
Aさん :バーナデット・ロバーツは自己と云うものを四つに分けているんだ、僕なりに解釈した大雑把な説明だけど
・偽りの自己
(久保注:これはラメッシ風に言えば肉体精神機構であり、根源のプログラムとしての進化している媒体で
根源のプログラムによって行為して、思考して、欲望している人格・個人としての私であって
魂の闇夜というプロセスには関与していない。聖なる根源からの贈り物であるロボット。またこれは
根源からの肉体精神機構というプログラムでもあり、このプログラムである肉体精神機構が行為し、思考と
感情とで生きている人格・個人である。これを偽りの自己と云っており根源からの投影されている映像である。
この個人・人格は、根源からの頭脳の条件付けに従って、反応しているだけのロボットでもある。
チャクラやクンダリーニはこの肉体精神機構に属している事柄である。 )
・自我・霊魂
(久保注:神聖な中心に覆い被さっている主体であり、求道し、神を探求し、神秘体験を経験している主体で
もある。記憶から成り立っており、エレブナで言う所のサイコノエティック体という成果体に相当し、観察者とも
霊魂とも言われている。
魂の闇夜に於いて脱落すべき運命である「私」である。
この霊魂である自我が魂の闇夜を経て終焉したあとに、初めてこの自我とは何であるのかを領解するの
であって、現在の久保栄治というロボットである人格や自我の次元の意識でもって、自分を理解しようとしたり
私こと久保栄治がこのホームページ上でいくら次元の高いことを述べていても、言語を使っている限りは
全てがこの自我の範疇に有り、この領域を脱することはないと言うこと、従って理解もないと言うこと)
・真の私
(久保注:私はこれを記載する資格はありませんが、バーナデット・ロバーツによれば、神と合一している
「I AM THAT」「在る」と言うべきキリスト意識としての私だそうで、これを最高次の意味での魂・永遠のパー
ソナリティー・若しくは観照者ともいえるのではないでしょうか
バーナデット・ロバーツによればこの私とは恩寵によって魂の闇夜を経て出現してくる「神としての私」、
自我が完全に脱落した状態、であり実在との合一状態だそうです。)
通常の精神世界(ラマナやニサルガ達は除く)では此処で、これ以上の解説はないのですがバーナデット・ロバーツはさらに
これ以上のキリストが出現した意味というものを次のように、段階的に解説しています
『キリストは、私達に、アダムの神との合一よりも高次元の神との合一を啓示したからです』と私達のレベルでは言語に
絶する衝撃的なキリスト復活の意味を述べています、
これは顕現の神ではない神を、即ち主体と客体が完全にひとつになった状態、「見るものは見られるものである」の
状態を超え、見る者と見られるものを超えた完全にまったく分離が何処にもない一つの状態のことを
アダムの神を超えた神・聖なる父と表現しております。
『そして、さらにキリストの全生涯はアダムと同じ原初のままの、罪のない合一状態でしたが、それにもかかわらず
苦しみ、死、復活へと進まれました。こうしてキリストは、私達をアダムよりも遠くへと連れて行きます。そして私達の
父への究極の帰還は、アダムの原初の合一状態をはるかに超えたものであることを示すのです』
『けれども、キリストと共に最終目的を達成する前に、私達はまず神との原初の合一に戻らなければなりません
その時、私達は霊的成長過程全体の中間点に達したことになります。要するに自己を超えるためには、
まず、神と一体化した自己を実現しなければならないのです、何故なら、自己超越のメカニズムは、この(神との)
合一的自己の活用にあるからです。この自己を超えることによって、キリストの最終的運命を実現出来るのです。
まず合一があり(久保注:魂の闇夜を経過しての)その後に、死と復活が訪れます。これこそ、キリストが示した
道です。これこそが彼の辿った生涯だったのです』と
・完全に自己のない状態
(久保注:この自我の終焉の更に先に、この「真の私であるキリスト」の十字架からの復活がある
などということは計り知ることも出来ないが、彼女によれば永遠のキリストの復活があるという。
バーナデット・ロバーツは「私は在る」が真の私の意識の姿であるように、無自己が自己のない意識の
真の姿です、自己と云うものがなければもう内部の闘いはないでしょう。それどころか、そもそも「内部」
がないのですーーーー「中」という意識も、最早ありません、とのべています。)
B子さん:凄い内容ね
けれどバーナデット・ロバーツの言っていることは私にはニサルガダッタ・マハラジやラマナ・マハリシの言っていることと
完全に符合しているように思うんだけど
Aさん :そう、そこだよキリストの伝統と、仏陀の伝統と、アドヴァイダの伝統は一つなんだよ。基となる根源が同じで
出てくるところが同じなんだから表現や媒体は異なっていても私達へのメッセージはまったく同じなんだ。
同じ根源から、時と場所が違って出ているからなんだよね
B子さん:わたしも本当にそう思うわ・・・
Aさん :そしてバーナデット・ロバーツはこの最終ステージの状態のことをいかにも彼女らしいキリスト者的な表現で言っているよ
『私は初め、無自己とは合一のさらに進んだ状態だろうと考えていました。しかし合一の中心全部が消えてしまった後
この合一状態にあるという観念の全てが放棄されました。合一の中心がない合一というものを、どんなに懸命に
正当化しようとしてもそれは出来ません。』
『キリストがその神聖な自己を十字架で失ったのとおなじように、私達も父のもとに帰るためには「キリストー自己」
を失わなければならないのです。ー中略ー自己はこの旅には関わりません。何故なら私達は自己と呼ぶ全てのものは
消滅しているからです』
(久保注:顕現と非顕現について)
『要するに、私達はついに、三位一体の中で、キリストと共に正当な場所を得るのです。それは顕現する神にとって、
なくてはならない重要な部分です。無自己についての究極的認識は、わたしたちの本質を悟ることです。それは
聖なる父(非顕現の全知の神)や聖霊(顕現する全能の神霊)と同一なのではなく、三位一体の顕現面である
キリストと同一なのです。
この突破に於いて、キリスト、父、聖霊という神性の特徴的三面が、交互に交換できないものでありながら、
一つであることがわかります。神のどの面が偉大だとか、どの面が劣るなどということはありません。
三位は一体としてわざをなされます。これを最終的に悟ることが無自己の意味なのです。
(神との)合一状態は無自己の状態へと流れ込みます。それは(神との合一状態)そこへ(無自己の状態へ)達する
手段なのです』と
B子さん:そうね、この三位一体とは、サット、チット、アーナンダと同じね
Aさん :そうそうなんどよ
しかし此処で具体的なプロセスというものをバーナデット・ロバーツは十字架のヨハネの言葉を引用して
(この魂の闇夜への道程のキッカケとなるであろうことを)能動的受動性という言葉で説明しているね
これはこちら側からの作業であり、恩寵があるための導引でもあるもので、クリシュナムルティー風に言えば
「受動的な凝視・自己観察」「あるがままをあるがままに見る」とも言えるしね
禅宗的に言えば卒啄同時ということかな
ラメッシ風に言えばその「受動的な自己観察」も起きているプログラムだと言うことかもしれないわね
B子さん:ともかくも、私もさっそく書店に行って、バーナデット・ロバーツの本を読んでみることにするわね
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