私とは見られている者である
覚者はいう「見るものは見られるものである」と
それは
見られている対象の者が私であるということであり
対象が私であると言うことである
見られている対象である貴方が見ている私・主体であると言うことである
であるのに、是を逆転して見ているのがマインドというマトリックスであり内部と外部を分離させている
内部や外部に見られている恐怖そのものが私であり、
その内部や外部で発見される不安が私を生みだし、
その優越感や増上慢そのものが私を作りだしたのではないか
私が恐怖を抱いているのではなく逆に恐怖という観念が私と言う恐れている私を生み出したのであるということだ
そういうことであるので
私という実体とは、その対象であり、見られる者の主体である
私と言う対象を認識している主体とは対象である客体そのものの一部であるということだ
そしてその分離感覚の記憶が私であり、更に自己意識を強化し確立してしまう
が、その記憶の中身は思考であり、思考によって発生している結果である
思考とは分離であり、自他の分離の認識であり、その認識が私という主体感覚を生み出している
それは知覚に於いても全くそのようであり、同じプロセスが働いている
実際には「主体という感覚を知覚している私」はいないのに、自己とはプログラムに従った思考の結果であるのに
感覚という知覚が私と言うイメージ(主体感覚)を生み出し続けているのである
実際には感覚という知覚が発生しているだけなのに、私が感覚している、私が知覚していると、その感覚や知覚が
言わせているのである
なので
思考にしても、体験にしても、経験にしてもそのプロセスは同じであり、マインドを使った根源のプログラムの結果である
自己とは全くの結果物であるのである
思考・感覚それ自体が自他に分裂し、主体と客体の分離そのものである構造なので、思考・感覚それ自身が私と言う分離した自己と対象を生み出したのである
従って思考が無いとき主体と客体の分離は存在しないことであろう
そして思考が無いとき「自己」もなく、その対象である「あなた」もなくただ一つなるものだけであることであろう
そして思考が生み出した「自己」が存在していないとき、その自他の分離という事が生み出していた輪廻転生も無いことであろう
ではこの思考とは一体何であろうか、何処から来たのであろうか
思考こそが思考を超越した「存在」が支えているのではないだろうか
だから思考が仮象できているのだと言われている
「実在」が思考を支えているのである、
それは私と言う仮象を思考が生み出し続けているのと同じように
概念や観念や感覚や欲望という思考を生み出している元は実在であると言われている
私と言う「自我」や「自己」や、「行為していると思っている私」、「私が人生を歩んでいると信じている私」、「私が輪廻転生していると思っている私」、「私が進歩していると思っている私」を生み出し支えているのは、それは実在であるというのである
無明は実在からやってきていると
仮象は本質からやってきていると
質料は質料を超越した存在からやってきていると
色は空からやってきていると
色は空に他ならず、空が色を生み出したのだと
それを私達はプログラムというプロセスに従って
自分が存在していて、此処に実在し、生きて行為しているのだと信じるようにセットされているのである
自分が存在し、自分が生きて、自分が行為して、自分が輪廻して、自分が神の元に帰るのだと信じるようにセットされているのである
私・自己とは結果であり、思考が生み出しているもの、否思考そのものであり
感覚や感情や欲望も、その思考であるマインドが生み出したものであり、
それ自体であるマインドの思考の意識が私と言う自己意識である
その意識が記憶となり凝固することにより更に私と言う自己分離感覚を強化し、自己の存続を願うことから
輪廻という錯覚のプロセスを生み出したのではないか
私とはこの私ではない、私とは結果であり存在していない
私と言うこの感覚と思考と欲望はプログラムによって発生した結果であり、その記憶である
私はいない、私は存在していない
プログラムである思考によって私と言う分離感を持つ記憶が発生し、それが私と錯覚しているだけである
私はプログラムの結果である。私は結果に過ぎない
私とは存在せず、この自己とは客体によって生じている主体感覚であり、偽りの主体である
この存在していない主体とは見る者・観察者であり、その観察者である私とは見られている対象そのものである
とそのように教えられているのではないだろうか