時間空間という間違った常識
現在という時間観念が生じたので、その結果として過去と未来という時間観念が生まれたのではないだろうか
もし、現在という分割された時間感覚がなければ、過去も未来も生じていないのではないか
では
この「現在という間違った観念」を意識しているものは誰か、認識しているものは誰か
覚者たちによって語られている、「虚偽であるこの現在過去未来という時間感覚」
(これが〜になろう、〜に至ろうとする意志を生みだし、完成しようとし、輪廻という継続する主体を持続させている、聖なる催眠ではないか)
「本来存在しないといわれている分離された時間」を生み出したのは、現在という時間観念であるとすると
この現在という「時間の観念」を生み出したものは誰か、何か
そしてさらにまた、その観念に縛られ、それを認識し、振り回されて、誕生し、死亡し、また再誕している、この私とは誰か
この時間という観念とは、一体何だろうか?何ものなのだろうか?
この観念は、この現在という「自他の分離空間」と深く結びついているのではないだろうか、
(勿論、この現在とは教えられている「今」とは、全く関係ないし、また覚者によって言われている「今・此処」の此処とはこの「自他の分離空間」ではないと思われる)
この「自他の分離空間」こそが、所謂私たちの認識している空間である、誤っている世間の常識の時空世界である
この時空世界というものは、「私という根本観念」が生み出し、想像し、創造したのではないだろうか
それが現在という「分離時空間」と言われているものであるのだろう。
これが通常の私たちの認識している「自と他が分離して見えている空間」のことなのではないだろうか
この自と他という分離、分離時空間、主観世界と客観世界
見るものと見られるものという分離、(私と世界、私とあなた、私と私の内面や外面という区別・分割・断片化)
主体と客体という分割は
錯覚だと教えられている、
覚者はそれは錯覚だ、とそのように言われる。
この錯覚が誤った「現在という時空間感覚」を生み出したものなのではないか、と推測される
それがいわゆる現在の次元ではないか、
これがこの三次元若しくは四次元と言われている時空間のことである
この「時間があり」、「空間があって」、「時間は流れており」、「自他は別々であり」、「見るものと見られるものは別々だ」と「信じること」「思う事」は
この錯覚という次元の特徴である、
錯覚自体がこのように錯覚して「信じたり」、「思ったり」している
この錯覚は、この頭脳から生み出されているのではないだろうか、頭脳を経由して意識されているのではないだろうか
この錯覚のことを二元性、分離性、現象世界又は三界輪廻世界等とも言うが
いずれにしても
根本的には「わたし」を肉体や身体と自己同一視して、身体が自分だという錯覚から生まれている。
これから生じたのが個人や人格という錯覚である。
そういうことであるので、これは無数の個体を通じて
この錯覚(根本無明)そのものが錯覚しているのではないか、頭脳を通じて。
自分が身体であるという錯覚は、五感にせよ第6感覚にせよ、第7感覚にせよ、何れかの身体(自他と分離しているという)との同一視から生じている
それは、この五感などの感覚が自分の感覚だという錯覚に縛られたからである
概念に縛られたのは誰か、それは錯覚という根本の第一想念の「私」そのものではないのか
その「根本的な錯覚という私」が、この各種の身体の感覚を、
即ち「これが自分の感覚だ」と思う錯覚を受け入れたときから「私は他人や世界から分離している」という迷いが生じたのではないか。
そして、分離した世界や宇宙が出現し、私と言う分離した記憶の人格・個人が現れたのではないだろうか。
この大元は感覚との同一視ではないか
この受け取っている感覚から「私はこの身体である」と錯覚したのだ、
何故なら、ご丁寧に、この感覚、この頭脳がもたらしているこの身体の感覚が、フィードバックして更にそれを強力に証明しているというわけである。
この感覚との自己同一視が、身体との同一視を招き、
そしてこの身体との同一視が自他の分離という錯覚との同一視を招き、
「わたしと分離した時空世界」が「内部と外部という分離世界」が出現したのではないだろうか
この現在の私たちの見ている世界は、「過去現在未来という時間と言うもの」が有ると思われている錯覚世界・錯覚宇宙、
そして自他の分離という空間があると、しっかり錯覚されている世界であるといわれている。
この錯覚世界、バーチャル世界、現象界、マトリックス世界、見るものと見られるものが別々であると錯覚しているこの世界は、
「私と言う錯覚」が頭脳を経由し、感覚と自己同一視した結果、この錯覚が創造した世界なのではないだろうか
(本当は世界は私であり、宇宙は私自身であると覚者たちは言われている)
では錯覚しているのは誰か
誰が錯覚しているのか
勿論、その錯覚しているのは「この私」である
では、この錯覚している「この私」とは誰か
「この私」こそが、この「錯覚している私」である
「錯覚している私」とは個人ではないのではないだろうか。個人を生み出している個人だと思っている根本の無明(根本無知)ではないだろうか
覚者達はこの根本的な「第一想念である私」は真の私ではないと言われている
私を詐称している「わたしではないもの」であるのではないか
真の私とは何故なら「未知なるもの」であり、言葉やマインドや感情や感覚や知性や知識や時間や空間ではないと度々言われているからである
従って、これら「既知なるものであるもの」は私ではない、と結論される。
これらの「真の私」ではない私とは、言葉であり、概念であり、記憶であり、思考であり、感覚であり、時間であり、空間であり、想念であるからであると言われている
つねづね私たちが覚者がたから教えられているところによれば
言葉は私では無い
概念は私では無い
記憶は私では無い
思考は私では無い
感覚は私では無い
想念は私では無い
そしてそれらを生み出した、この時空間も私では無い
既知なるものはすべてが私では無い
頭脳を経由している意識も無意識も私では無い
そしてこれらのもとであるマインドという無明が生み出した「見るものと見られるものという分離」、「自と他という分離」、「主体と客体という分離」、「世界と私と言う分離」も私では無いのではないか
そうして最後にそれらを生み出している「根本無明の私」も私では無い
とそのように教えられている
さて、以上のことは私の観念であって、単に私の考えであり、実体験ではない
これを本当に理解しようと思うのなら、実際に体験しなければならない
私もあなたも、本を伏せて、言葉や知識や観念や思考から離れて瞑想の中で、直(じか)に「真実の智慧」触れるより方法はないと思われる