私ではない私をあるがままとして、自身として凝視すること


「神以外に何か見えるとしたら、それは盲(めくら)人である」


と自己実現した人は言われる


では

その眼が空いていない「この私」とは誰か

私なのか、それとも「この現在の私」とは、継続していたいと願っている「私ではないもの」であるのか


しかし「この私」とは「私ではないもの」としても、「あるがまま」であることは確かである

この「あるがまま」は「あるがまま」として「あるがまま」に直視されることを望んでいる

またそうであらねばならないとおもう、

それが「この私ではないもの」がこの私に覆い被さって、ここにいる理由でもあるのではないか


この「私ではないもの」が「この私」として、記憶として、結果としてここにある以上は、

見られるためにいるのではないのか

この私という「私ではなく結果でありプログラムであるわたし」が私として認識され、感覚され、記憶されているということの理由は「見るものは見られるものである」として愛情を持って体感し、見られるためにいるのだ

「あるがまま」として、感じ、よくよく最後まで体感され、見届けされ、味わい尽くされるために、

わざわざ此処にいるのではないのか


この現在の「この私」「私ではない私」が私によってここにいる理由とは、一体何なのであろうか

それは

この現在の「この私」が「私ではない私」として、「私ではない私」によって味わい尽くされるためにいるのではないのか、ということではないか


この恐怖が、この肉体との同一視が、この暴力が、この思いやりのなさが、この愛のなさが、この自他の分離が、この常に打算で計算している狡猾さが、この自己関心が、この高慢が、この不安が


これ自体が生み出した、同じ「この私」によって、「結果である私」によって

味わい尽くされ、感じられ、愛情を持って深く凝視され、体感されることを待っているのではないだろうか

「あるがまま」が「あるがまま」・・・・・として

言葉を替えて言えば

この打算と高慢と思いやりのなさが、それ自体でありこの打算そのものである私、この高慢である私、この思いやりのなさ自体の私

時間であり分離でありものがそれ自体の時間である分離によって、

思考が思考自体によって、

自他の分離とこの分離の目が、盲人の目が、この自他の分離というマインドと、盲人と言う二元性自体によって



「見るものは見られるものである」としてあるがままとして凝視される事を望んでいるのだ



本来存在していないと言われている、この結果でありプログラムである「この私」が

この結果でありプログラムである「この私」によって

あるがままをあるがまま、

何の非難も、何の逃避もなく、深き愛情を持って凝視される事を待っているのだ

それがこの盲人である私の人生が括弧付きでない私によって仮象している理由でもある

神以外のものが見えるとしたらそれは目が開いていない盲なのだ、といわれる盲とは実は何処にもおらず

既に目が開いているのだ

と言うことを実感するために

その目が開いていない盲人が何処にも最初からいなかったことを知るために

全ては全体であり一つであり、自己は最初からいなかったことを再確認するために


このワークが与えられているのだ


そこのワークの中に

あるがままがあるがままとして

クリシュナムルティー方の言われているとおりの状態が出現するのかと推測している

覚者のいうあるがままがあるがまま見られたとき

あるがままが超えられる

そこに奇跡という沈黙が起きていると言うことであろうか

その時

その「現在の私」も「私では無い私」も何処にもないことであろうか


その時、死は生であると覚者は言われる

そして

私は死んでいる

そして死んでいることで生きている、とその時実感できることであろうと教えられている



と言われるような状態が出現し、誕生しているのかもしれない

ここで求められていることは

「死とは生である」、と言うようなキリストの磔そして復活というような「第二イニシエーション」という高次の段階を想像し、道に迷うことではなく

なぜ、「この私ではない私」がここに「現在の私」としているのかを発見することではないのか


それは「この私と言う私ではない私」によって

「あるがまま」が「この私と言う私ではない私」のあるがままがあるがままに凝視される事を待っているのである

この不安と恐怖と暴力と嫉妬と高慢と憎悪がとことんあるがままに愛情を持って

そして私自身として分離することなく「受動的に凝視」されることを待っているのである

そして


それこそがこの「現在の私」という私ではないものが、私によってこの意識の座にいる理由でもある

と私は信じている









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