意識の階梯 | |||||||||||||||||||||||
ラマナ・マハリシは何処かで「マインドが身体と同一視したとき多くの自己(他己)が生まれた」と言っていた | |||||||||||||||||||||||
この現在意識の「現在の目覚めている私」とはマインドそのものであり、このマインドが個体の頭脳を経由し結晶化(記憶化)して自我(エゴ) | |||||||||||||||||||||||
として意識された | |||||||||||||||||||||||
自我(エゴ)とは肉体と同一視しているマインドのことである | |||||||||||||||||||||||
だからマインド・自我がこの対象の世界を「本当の非分離の世界」の上に雲のように投影して、この実際の世界を見えないようにしていると言われる | |||||||||||||||||||||||
何故そうなのかと言えば、頭脳が調整されて、本来の知覚や脳機能が押え込まれ、自分と対象が分離しているように見させられているからである、と | |||||||||||||||||||||||
そして、そのマインドが身体と同一視して、自分はこの肉体であって他の身体とは別だと錯覚したのだ、そしてそのマインドが存続を願って記憶体が凝縮し、 | |||||||||||||||||||||||
自我を生み出して輪廻のシステムを支えているのではないだろうか | |||||||||||||||||||||||
以下、聖者たちの言葉である(意訳) | |||||||||||||||||||||||
・ | 私達が束縛されているという観念を追い払うこと、(この誤った観念が空間を埋め覆っているのを許任しないこと) | ||||||||||||||||||||||
・ | 私は実現していない(他己も実現していない、自と他は異なっている)と想像しているのはマインドであって私ではない | ||||||||||||||||||||||
この誤ったマインドを受け入れないこと、この錯覚を拒絶すること | |||||||||||||||||||||||
・ | 真の私が存在していない瞬間はない。マインドを退かせれば、そこに真の私がある | ||||||||||||||||||||||
・ | 何処にも行かないこと、何にも成らない、何もしていない。今此処であるがままであること。あるがままとは非分離である | ||||||||||||||||||||||
「見るものは見られるものである」である、真の私は沈黙として、未知なるものとして、今此処に既に存在している。 | |||||||||||||||||||||||
・ | 個人などないのに、マインドがマインドを個人だと想っている、このマインドとは真我というスクリーンの表面を流れている | ||||||||||||||||||||||
思考・感情そして自我である。頭脳を経由して投影されているこの私と対象世界は、虚像であり真の私ではない | |||||||||||||||||||||||
・ | 毎朝、眠りから目覚めへと移行するとき「私」という想念・個我が立ち現れ心が活動し始める、それからあらゆる種類の | ||||||||||||||||||||||
想念が続き身体機能(脳)が作用して、世界を対象として投影し、これが我々に朝、目が覚めたと言わせ | |||||||||||||||||||||||
それと共に、喜びと苦しみという想像が沸き起こる。 | |||||||||||||||||||||||
・ | 自我(エゴ)を探せば自我(エゴ)は存在しない、自我(エゴ)は私ではない。わたしではないものであるマインドを | ||||||||||||||||||||||
私ではないマインドとして見ること | |||||||||||||||||||||||
・ | 私である真我を見なさい、そこには私ではないものは存在していない。何も分離していない。 | ||||||||||||||||||||||
・ | 目覚め・夢見・深い眠りとはマインドが生み出したもので実在ではなく、意識のスクリーン上に、単に来ては去っていくもので | ||||||||||||||||||||||
この意識のスクリーン上の映像を見ているものこそ、二元性というマインドである、自我(エゴ)・目撃者である | |||||||||||||||||||||||
(観照者ではない) | |||||||||||||||||||||||
従って、以上の覚者がたの言葉から、以下のように思われる | |||||||||||||||||||||||
私達がこの限定された知覚に捕らわれ、内部と外部に分割し、世界が外にあると錯覚し、そのように信じ | |||||||||||||||||||||||
かつ、それを分離してみている私(自我(エゴ)マインド)が此処に機能している限りは、この意識とはマインドの特性である偽の意識である | |||||||||||||||||||||||
目覚め・夢見・深い眠りという虚偽のマインドに捕らわれており、この記憶し体験し、認識している私とは実は私ではないと言うことである。 | |||||||||||||||||||||||
以上の観点から私たちの知覚と認識を覆っているマインドの状況を、意識の階梯として推測したい | |||||||||||||||||||||||
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起きていること やってきていること 内外の出来事 |
内面と、外面で起きていること。やってきていること内外に。 | ||||||||||||||||||
・ | 成功するとか、失敗するとか、損するとか、得することとか | ||||||||||||||||||||||
・ | 嫌なこと、良いこと、好きになること、嫌いになること | ||||||||||||||||||||||
・ | 病気になること、健康になること | ||||||||||||||||||||||
・ | 恐怖に襲われること、満足感を得ること | ||||||||||||||||||||||
・ | 不安になること、安心感を得ること | ||||||||||||||||||||||
・ | 願いが叶うこと、願いが叶わないこと | ||||||||||||||||||||||
・ | 出会い、別れ、運命、世界、宇宙、外部 | ||||||||||||||||||||||
・ | ラマナ・マハリシのいうスクリーン上の映像 | ||||||||||||||||||||||
B 記憶 自我 |
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Aの出来事に頭脳・記憶・プログラム等による条件反応で起こす自我(エゴ)の行為 | |||||||||||||||||||||||
※行為とは肉体上のことだけでなく思い・感情も含む | |||||||||||||||||||||||
・ | 嫌なこと、恐ろしいことは逃げよう避けようとする | ||||||||||||||||||||||
・ | 他人が有ると思って優越感や劣等感を抱き、軽蔑する | ||||||||||||||||||||||
・ | 自尊心が満足したら安心する、逆かなでる事には逆上する | ||||||||||||||||||||||
・ | あるがままの自我(エゴ)の反応(無意識の反応) | ||||||||||||||||||||||
・ | 欲望に囚われて、何かを求めようとする願望が起こる | ||||||||||||||||||||||
・ | 表面上の今回の人格・個人(又は過去世のワサナとしての人格の反応) | ||||||||||||||||||||||
・ | ラマナ・マハリシのいうスクリーンの映像上の私・偽我 | ||||||||||||||||||||||
C 観察者 見るもの 目撃者 |
自我の反応 への 目撃者の 反応 (二元的観察) |
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Bの反応に反応しマインドが自己矛盾した行為をすること、即ち良くなろうとすること | |||||||||||||||||||||||
・ | 私は自我(エゴ)であるから、何とかして良くならなくてはと思う事 | ||||||||||||||||||||||
・ | 私は反省している、自分の自我(エゴ)を何とかして撲滅しなくてはとすること | ||||||||||||||||||||||
・ | 若しくは、自分は自我(エゴ)であるので仕方ないと諦観したりすること | ||||||||||||||||||||||
・ | 自我(エゴ)の反応に対して自我(エゴ)を非難したり、受容してみたりする行為、そうならないように努力すること | ||||||||||||||||||||||
・ | このCの反応が所謂、記憶であるところのサイコノエティック体の実体の反応であり、BがCを創っている | ||||||||||||||||||||||
にも関わらずCは見るもの、Bは見られるものという分離の構造を創りだしているものが二元性マインド(B+C)である | |||||||||||||||||||||||
・ | 或る出来事(外面及び内面の)や状況に対しての自我に対する反応こそ、この表面の人格に対する魂のサイコノエティック体 | ||||||||||||||||||||||
としての自我(エゴ)の分離行動である | |||||||||||||||||||||||
・ | ラマナ・マハリシのいうスクリーンの映像上の私・偽我を観察し目撃している私だが、これもそのスクリーンの登場人物である | ||||||||||||||||||||||
D ワーキング マインド 高等思考 |
純粋思考 上記のマインドを非難せず 判断せず 留意する (マインドによる私ではない ものへの凝視 をすることが マインドからの 解放をもたらす) |
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マインドの一部分であるが抽象思考といわれるワーキングマインド高等思考である | |||||||||||||||||||||||
・ | BとCの分割している自己矛盾というものに気がついているマインドの一部 | ||||||||||||||||||||||
・ | この意識状態では、まだ熟睡中にも熟睡に気がついている「気づき」が覚醒しておらず | ||||||||||||||||||||||
外界や客観世界が自分の内部であり、投影であることに気がついていないが何も求めず静観している | |||||||||||||||||||||||
・ | BとCとに分割しているマインドを、非難せず、共に私自身として凝視している状態 | ||||||||||||||||||||||
・ | BとCとをともに真に受容し、離れようとはせずに、このままマインドが沈黙し凝視している状態 | ||||||||||||||||||||||
・ | 私がBとCであることの中に安らいでいる状態、替えようとしないこと | ||||||||||||||||||||||
・ | 自我(エゴ)を受け入れ、あるがままをあるがままで有ることに動かない状態 | ||||||||||||||||||||||
・ | あるがままを受容すること、この自我(エゴ)の反応を自分の反応と考えている自我(エゴ)を受容して | ||||||||||||||||||||||
この受容されているものも私自身であることを理解する | |||||||||||||||||||||||
・ | 人生の色んな局面での関係の中で、自我(エゴ)としての反応と同一化して自分は自我だと思う事が | ||||||||||||||||||||||
マインドの錯覚だ、その自分は自我(エゴ)だと思う事が自我(エゴ)であり、その自我(エゴ)=自分と | |||||||||||||||||||||||
想っている自分は自我(エゴ)であり私ではない | |||||||||||||||||||||||
・ | この自我(エゴ)=自分良くしようとして想っている錯覚の自分も共に第1想念からである | ||||||||||||||||||||||
・ | この第1想念の根本錯覚とは自我(エゴ)=私という概念であり、私が行為し、思考しているという錯覚 | ||||||||||||||||||||||
・ | 肉体との自己同一視を起こしているマインド・自我(エゴ)を源泉が生みだし使っている | ||||||||||||||||||||||
・ | この自我(エゴ)は現象界を維持するための役目として、二元性の目を与えられ、自分という感覚を持たせられ | ||||||||||||||||||||||
世界を自分とは別個の分離した対象として認識するようになった、この知覚された世界と自己が有る限り | |||||||||||||||||||||||
マインドによって支配されている。過去現在未来という感覚がある限りマインドに支配されている。 | |||||||||||||||||||||||
・ | エゴは源泉が生み出した、エゴは私であり、その私が内と外に対象を認識し、知覚している以上そのしている私は | ||||||||||||||||||||||
私ではないエゴの私である | |||||||||||||||||||||||
・ | 世界や自己が対象である限り、マインドは存続している | ||||||||||||||||||||||
・ | 輪廻の構造、マトリックスの構造はマインド側、思考側からでは時間空間の罠に陥り、正しく見て理解することは出来ない | ||||||||||||||||||||||
・ | 時間と空間、自他の分離という錯覚が邪魔をしてしまい正見できない、このシステムと構造は思考を超えた「気づき」 | ||||||||||||||||||||||
側からしか見えない | |||||||||||||||||||||||
・ | マインド・思考が実現していないと錯覚するようにプログラムされている | ||||||||||||||||||||||
・ | マインドによる「私ではないものであるマインド」をあるがままに分離せず凝視することがマインドの沈静化をもたらし | ||||||||||||||||||||||
このマインドの沈黙の中に、訪れる未知なるものが、このマインドを粉砕し、真の私が顕現する | |||||||||||||||||||||||
E 観照者 |
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観照者意識 | ||||||||||||||||||||
※以下はあくまで久保栄治が推測する聖者達の言葉である | |||||||||||||||||||||||
・ | 「見るものは見られるものである」の見それ自体 | ||||||||||||||||||||||
・ | 個人的行為者との沸き起こってくる感覚からの自由は、エゴにとっては自由の喪失を意味する | ||||||||||||||||||||||
・ | 行為者はいない、行為は、そしてマインドはただ起きている。行為もマインドも真の私ではない。 | ||||||||||||||||||||||
・ | 私はいない。行為と思考と感情と記憶は来ては去っていくだけだ | ||||||||||||||||||||||
・ | この根本錯覚である自我(エゴ)、及び私の行為、私の思考、私の身体、私の知覚、私の体験、私の記憶 | ||||||||||||||||||||||
等の全ては私のではなく、源泉が創作して投影しているものである、真の私は観照しているものである。 | |||||||||||||||||||||||
・ | 個人はいないのに思考や感情、知覚を使って肉体と同一視して自己が有るように錯覚を創りだした、 | ||||||||||||||||||||||
そして転生システムを創りだした | |||||||||||||||||||||||
・ | 全ては起きている、行為も内面も、だから私は何もしていない | ||||||||||||||||||||||
・ | 至ろう実現しよう帰還しようとするものこそが第1想念であり、私は旅に出ていない、旅とはプログラムであり結果であり | ||||||||||||||||||||||
錯覚である | |||||||||||||||||||||||
・ | 関係が起こるために、自我(エゴ)は創造された、関係が無いと自我(エゴ)は無く、そして創造者もなく創造もない | ||||||||||||||||||||||
F 真我 |
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真我意識 | |||||||||||||||||||
・ | 実際はわたしも世界も映像であり、投影されているマトリックスであるので何も起きていない | ||||||||||||||||||||||
・ | 誕生も死も虚像であり幻想だ | ||||||||||||||||||||||
・ | 映像システムというカラクリを正見したときそれは存在しない | ||||||||||||||||||||||