無限遠点について
無限遠点とはなにか
無限遠点とは、あのヨガナンダが示してくださっている、スリユクステワの解説図で解説されている中央部分にあるマインド
自我のところを見ていただきたい
そこでは私達のマインド・時間に取り囲まれている思考・自我部分ではあっても、唯一アートマンと言われている観照者に
触れている部分があることを示してくださっている
そのマインド=思考=自我→分離世界という図式の中に在って、唯一実在である「智慧と慈悲と正覚」に触れている部分
マトリックスである時間・マインド・自我の中に在っても、唯一アートマンと接触している部分
私達の現在意識の中に在っても唯一、真の私からの流れが接触し、顕現している部分、意識している部分
それが無限遠点といわれる観照者との接触地点である、観照者である意識部分でもある
それこそが私たちの中に在って唯一の救済ポイントでもある
私達の自我意識の全てが、思考だけであったり、人格や個人やワサナの記憶だけであるわけではない
私達は単一の意識ではなくて、多くの色んな意識から成り立っている
私達内部の複層的、重層的な意識構造の中にあって観照者に触れている意識部分が存在している
観照者である意識部分が存在している
それがあのスリユクステワの解説図に表示されており、
それが真我から直系で流れているアートマンとの接触点である無限遠点である
そうであるにもかかわらず私達の意識は単層であるとか、覚者の言われることは全く不可能であるとか
言うことは間違っている
私達の意識は重層である、複々層である
それなのに、一部の方々は自我というマインド領域には記憶だけだと主張してしまい
クリシュナムルティー方は不可能なことを私達に求めているのだ、などと言い出してしまう
けれど私達にとってクリシュナムルティー方の言われていることは決して不可能ではない
不可能ならば話すこともしなかっただろう
ただ難しいだけであり、糸口は存在しているのである。
けれどもこれは自我が求めている方法というものではない
自我が行う方法とは存在していない、この無限遠点とは自我の方法ではない、方法や自我から遠く離れることだ
けれどもこれが不可能なことであるのなら、クリシュナムルティー方が降りて来られて、
私達に話すこと自体が否定されてしまう
何故クリシュナムルティー達は人類に道を示されたのか、その来られた理由が在るからである
即ちそれが無限遠点にいることであり、
その思考である自我から離れていることは不可能なことではないのである
この無限遠点とは、
思考や自我を操作したり(この自我をコントロールすることが自我である)、非難したり、取り囲まれたりせずに、
ただただ自我から離れ、思考から離れている地点であり、
その視点こそが自我である思考を非難なく観照している地点でもあり
マインドという思考=自我に触れられていない地点でもある
私達の意識領域の中にあっても、真我からの観照者との接点が存在していることは救いの福音でもある
それが無限遠点である。
それがこの意識の中でマインドの思考・自我が触れていない地点でもある
限りなく「思考=自我」そのものを遠くから留意している意識の点であり
決して「思考=自我」を非難したり、避けたり、判断したり、分類したり、選択したり、同一化したりしないで
思考の働き、自我の働きを、来ては去るがまま、あるがままに、その「思考=自我」を観照している視座である
この現在意識領域内にあっても、それに属していないで、その「思考=自我」から無限に離れている点のことを
無限遠点というのである
私達はこの無限遠点にいるべきである
「〜すること」「〜なること・到ること」から離れること、それらから限りなく遠くへ離れること
時間から、過去から、未来から、限りなく遠く離れ、時間と接触しないこと、思考と接触しないこと
「〜しようとする私」を、「〜に到ろうとしている私」を、「〜を選択し自分が行為していると思っている私」を限りなく遠くから
非難せず、言葉を使わず、思考なく凝視していること、観照していること
その無限遠点にいること、
無限遠点そのものであること、そのことが肝要なことであると
無限遠点、これが私達にあるのでクリシュナムルティーは私達に語りかけているし、
ラマナ・マハリシや上江洲義秀先生も降りて来られて
私達に話しているわけである
私達には「在ることができる!!!」があるのである、
これが救済のポイント点である、これが無限遠点である、これが私である