観察者とは?
観察者と呼ばれ、観察しているものであるこの私とは本当に私なのだろうか?
それとも私を覆っているマインド思考・記憶だろうか?
観察者とは、内部であれ外部であれ、なにかを対象として観察しているのであり
いつも観察されるものを対象として観察している私であり
対象と分離されている主体(記憶・私)のことである
それは
観察される対象が自分ではないと信じている私であり、
所謂、思い、考え、何かを願い、知覚し、認識し、五感でもって生活している私の事であり
またそれは
この私が引き起こす反応を観察している私でもある
それは本性が分離しているマインドであるので観察されるものと観察者は同じであるのにも拘わらず
観察者と観察されるもの(対象)は異なっていると信じているのだ
そのマインドである観察者とは自分が主体・私であると思っているので
(対象として観察されるものが自分ではないと思い込んでいるので)
外部に、自分以外に何かが対象として存在していると信じている
そして
内部に於いても同じように自我を対象として見ており、この自我を非難したり、自我から逃避しようとしている
そしてこの観察者が、このように信じるのだ
「行為しているのはこの私だ、私が行為しているのだ」・・・と
「自分(記憶)が行為者だ」と思い込んでいる
そしてこの自我は分離しているので
この行為していると思われる自我を自らが非難してしまうのである・・・これが観察者とよばれているものである
だからこの観察者も自我も
自分が思考している、考えている、信じている、思索していると思っている
そして
自我という記憶であるものは、このやってきている思考と感情と信仰と行為を非難するのだ
そして、さらに自我である観察者は、観察者自らをも観察して非難するのである
自我を観察しているものも自我であるというのに
観察者という自我は、自分は自我ではないと思っているのだ
けれども実際には
観察者は自我だからこそ、自我を認識しているのだし、認識することが出来るわけだし、知覚できるのではないか
観察されているものは観察者自身なのではないか
なのに自分は自我とは別だと思っている、観察者は観察されている自我とは別だと思っている
本当は自我を観察している観察者は観察されている自我であるというのに
そのような分裂がマインドというものの特徴であるというのに・・・・
この観察者であるマインドとは、自己を分離し分裂させてしまうために
内部と外部を分離させ、世界と宇宙を外部に見て、世界が宇宙が完璧ではないと思うのだ
どうしても世界や起きている出来事が争いと闘いであり、悲しみと恐怖であるようにしか見えない、そのようにしか見る事が
出来ない
何故なら見ている者がマインドであり、対立であり分離であり苦しみであり恐怖であるマインドそれ自身であるからだ
このマインドが目(鏡・窓)を覆って「世界と言う私」を見えなくしているのだ
このマインドの目には戦争とテロが続き、飢餓と悲惨と不平等が世界に蔓延しているように見える、内部と外部がひとつである
ところの本当の世界である私がどうしても見えないのである
そしてこのマインドはこう質問する「神がもしいるのなら、どうして世界は斯くも苦しみと悲しみと悲惨に満ちているのか?」と
このマインドは目を持っていないので思考と言うフィルターを通してしか見る事が出来ない
だから、このような質問をするのだ
同じように内部に起こっている事も正しく見る事が出来ないので
思考も、感情も、考えも、信仰も、思索も、その「記憶であるもの観察者」とは全く関係なく根源から起こっている
聖なる出来事・ドラマであるにも関わらず
それを記憶である観察者は、客体として対象として知覚し、体験し、知覚してしまうために、自分が思考している、自分が
信じている、自分が願っている、自分が行為していると錯覚するのだ
聖なる根源から起こっている出来事を聖なる事と捉えることが出来ずに、自らの苦悩と恐怖をその出来事の上に対象として
投影してしまうのだ、やってきている思考と感情と感覚と出来事を起きていることとして照見出来ないのだ
そして自らの本性である時間という分離した二元から間違って世界を(内部を)解釈して、
世界と宇宙とに、内部と外部に、混乱と悲惨と悲しみと苦しみのみが起きているというように捉えて認識し知覚してしまうのである
もし
錯覚である主客分離が停止し、思考が終息しているなら
「観察者は観察されるものである」ことを「正見」している観照者が誕生するならば
そして
その観照者(スクリーン・鏡)に真我が反映して、実は自我(エゴ)は最初から無かったことが判明するだろう
真我の太陽が観照者という鏡を通して輝くとき、その光の中で、全てが愛そのものであったことが露呈する
そこには最初から自我もマインドもないのである
この内界と外界の統合の中に、(「見るものは見られるものである」のなかに)内部と外部が一体となった次元が姿を現すの
だろう
そして、ただ一つなる世界は完全完璧であることが正見されることだろう
全てがただ一つであり、全ては一命一体であることが分かるだろう
この正見の中に聖なる根源の実際に起きていることがハッキリと顕わになることだろう、そして全ては「空」であることが顕現
されるだろう
そこには分離もなく、悲しみもなく、苦しみもなく、判断も、評価もなく、善悪もなく、自他の分離もなく、誕生もなく、死ぬこともなく
主体と客体の分離もなく、過去も現在も未来もなく、思考もなく、成ることもなく、到ることも無く、失うこともなく
思考が無い故に自我もなく、自我がない故にマインドもなく、マインドもない故にマーヤもなく、マーヤがない故に愛だけがあるこ
とだろう
悟ることもなく、悟らないこともなく、対象もなく、努力もなく、行為することもなく、五感もなく、知覚もなく、記憶もないことだろう
全てがただ一つである状態の自と他の、内部と外部の分離のない世界が在ることだろう
愛だけが、愛のみが、全ては愛であるとして在ることだろう
完全完璧として・・・
いまここ、あるがままとして・・・・・
にもかかわらず
思考が脱落せず、時間が終焉しておらず
このマインドである二元分離が鏡である観照者を覆っている限りは
マインドというこの私が行為しているのだ、私が思考しているのだ(真の私は思考もせず行為もしていない)
「あなたは、私ではない」「私は観察している」「私は徐々に良くなっている、進歩している」という様に思ってしまうことだろう
そこでは常に分離の状態、主体と客体の分離の次元に留まっていることだろう
この錯覚に留まっている限りは、マインドが生み出している嘘の世界に縛られていることだろう、そして正しく見ることなく
内と外、内部と外部の分裂、内面であるものと、知覚され感覚の対象とされているものである外面との乖離がある
恐怖と悲しみと暴力と憎しみと羨望は続き、進歩している良くなっているという錯覚が続くだろう
過去と現在と未来という時間という虚構の中に捉えられたままで、常に過去である未来に目が行くことだろう
明日とは虚構であるにも拘わらず、明日はマインドが造りだしている嘘であるにも拘わらず・・・
自分とあなた、私達とあなたたち
私と私でないもの、
私と出来事
私と世界
映画とその映画の観察者という分離の状態が過去現在未来という時間の中では相も変わらずに続いていることだろう
けれども、
「気づき」がやってきたなら
このように言うことが出来るだろう
「この記憶である観察者とは(若しくは記憶の反応である観察者とは)
やってきているものではないだろうか?根源のプログラムなのではないか?
若しくは
この観察者も起こっているものではないだろうか?
この自我とは起きていることではないだろうか?」・・・と
「この記憶も
この記憶の反応も起きているのではないか?
私とは記憶であり、そしてこの記憶の反応であるものではないのか?」と
、
「この私と言う思考の中心である記憶も、この記憶が集まった巨大なる記憶も
この思考である観察者が対象として、客体として観察しているあなたも、世界も、一緒に
同じように、時間と云うマーヤの中で
起こっている事である、やってきていることであると云うことではないか?自我も自我を見ている観察者もマインドが造りだ
している虚像ではないか?観察者は観察されるものではないか?・・・」と
煎じ詰めれば
主体があるので客体は存在できるのではないだろうか
映像である個人・人格・出来事・運命・カルマという対象があるためには、
その映像を成立させるための条件としての主体を必要としている、観察者という自我が必要である
根源は(空は)このマーヤを生み出し、維持させるためには二元の分離を、時間を、そしてマインドが必要なのである
マーヤのためには、見る者と見られるものの分離が必要なのである
見る者と見られるものが、そして対立と乖離がマーヤの存続維持のためには無ければならないのである
観察者と観察されるものの乖離が無ければこの錯覚マーヤは成り立たないのである
観察者、自我、見る者とは実際には観察されるもの、見られるものであるにも拘わらず
真実とは
観察者、自我、見る者とは観察されるもの、見られるものと分離してはおらず
観察者は観察されるものであるにも関わらず
見る者は見られるものであるにも関わらず
記憶は記憶されているものの一部であるにも関わらず
どうして別々の事象としてみられているのだろうか、その別々に分離して見ることがマインドの特性なのである
どうして私や神やキリストや釈迦が観察と知覚の対象に成ることが出来るだろうか
これを私とは分離している対象として見、主体と客体が別々の事象としてみているものが時間であり、マインドであるのではないか
だからそれを記憶し、知覚し、認識し、体験しているものは私ではないのではないか
外部に神やキリストを見ている私とは私ではない
また、外部に私以外のあなたや世界を認識し、知覚している私は私ではない
真の私であるなら、どうして
観察者と観察されるものが分離しているなどと思考するのだろうか、知覚するだろうか、認識するだろうか、経験するだろうか?
神を外部に、あなたを対象として、世界を客観世界だと思ったりするだろうか?
真の私であるなら、どうして
自我を認識したり、思考やマインドを認識したり、恐怖や憎悪や悲しみや嫉妬を認識できるだろうか、そこには愛しか見えてないので
はないだろうか?全てが神であり、全てが愛であり、全てが完全完璧である真実が見えているのではないか、そこでは時間である
マインドは既に消滅しているからである
真の私であるなら、どうして
過去現在未来という時間を認識できるだろうか、そこには今しかないのではないだろうか?
真の私ならどうして
良くなろうとするであろうか、悟ろうとするであろうか、真我に到ろうとするであろうか、またその為に努力したりするであろうか?
真の私であるなら、どうして
あなたを私とは違うと認識するであろうか、私と世界が別にあると想像したりするだろうか、世界や宇宙という客観世界が
私とは別々にあると錯覚するだろうか?
真の私であるのなら、どうして
神を求めたたり、真理を探究したりするであろうか?
既に私であり神であり、真理であり空であるものが、それらを求めるであろうか
私であるのなら神を求めるだろうか、真我実現を求めるだろうか、私以外の対象を知覚したり、認識したり、体験したりするだろうか?
真我実現を求めて努力し修行しているものは私ではない
神を求めて近づこうとして、良くなろうと努力しているものは私ではない
他と分離して、あなたが私ではないものは私ではない
世界と分離していると思っているものとは私ではない
思考している私は私ではない
自我が自分と他人に見えている者は私ではない
願望や欲望のある私は私ではない
恐怖と憎しみと葛藤と悲しみと苦しみを観察し、見ている者は私ではない
(私であるなら、それらは消滅し、存在していないからである、最初から自我はいなかったのである)
分離した知覚を持っている私は私ではない
認識や体験や言葉を持っているものは私ではない
愛以外に、分離するマインド思考を見ている者は私ではない
対象があり、外部に世界を見、ただひとであるもの以外に何かを見ている私は私ではない
分離して世界や宇宙を、そして出来事をやってきているものと認識している私とは私ではない
自と他と分離している私を自分だと信じ込んでいる私とは私ではなく、
私ではない私を自分だと思っている私は私ではない
それらはマインドの一部である記憶に、マインドであるものに過ぎない
〜に成ろう、到ろうとして努力し、常にグルを探し求めているものは私ではなく、プログラムにすぎない、プログラムは私ではない
思考しているものとは私ではなく思考である、その思考が私だと名乗っているにすぎない
他人を自分ではなく「他人だと思っている私」とは私ではない、それは思考であり、その思考が生み出した記憶である
運命やカルマや輪廻転生しているものとは私ではない、
転生し、新たなる肉体を得て生まれ、成長し、他界し転生しているものは私ではない
それらは時間そのものであり、マインドであり、プログラムであり私ではない
知覚や認識や記憶があるもの、思考であるもの、対象を持っているもの、経験や体験や理解をするものは全てが分離しており
「見るものは見られるものである」ものではない、それは全てが私ではない
もし、私であるのなら
「見るものは見られるものである」であり
観察者は観察されるものであると
言明しているからである
と、そのように教えられているし
またそのように信じている