思考とマインドの違い
言葉の持っている意味でマインドと思考の違いを此処で改めて整理したい、僕なりにこの差違を意識面から考察してみた
気づきとは
・存在自体の意識で、又は神(神々ではない)そのものの意識、即ち「私がまったく存在していない意識」「無我」である
・この意識の特徴とは「愛」である。「愛」が最大の特徴と言える。
・在るという実在の意識であり、思考ともマインドともまったく次元が異なっている
がしかしマインドも思考もこの愛がなければ一瞬といえど存在することはできない、現象はこの根源から生まれている
・今・此処あるがままであるもの、非対象、非思考、「主体客体という分離」がない状態、意識を超えている状態
過去現在未来という時間ではなく今である気づきである、すべての時間はこの今には存在していない
・真の私・観照者とはこの真我の意識の現象界での接点である
マインドとは
・神の道具といわれているもの、若しくは神のマトリックス・幻想・幻術・夢の中身、
・過去現在未来というすべての時間はマインドであり、マーヤである神の幻術である
・現象界の被造物そのものの本来の意識、現象界はこのマインドで成り立っている
・すべてにあまねく普遍的である「私」、全体である「私」という意識である
・全ての外見上の差違、違いを超えて全ては一つの私である、その一つなる私はマインドである
・マインドは頭脳ではない、頭脳の意識ではない、頭脳を創造している意識である、頭脳はマインドの創造物である
・プログラム・条件付けは此処から発生している。此処マインドから個々の身体の行為と思考と出来事とは発生している
・全ての有情無情、鉱物や命のないものをも含めて、がこの私である。この私の内部に世界と宇宙はあるというのは
神の道具としてのマインドの意識である
・マインドは気づきに気づいている意識である、気づきは正確には意識を超えているからである、だから気づきその
ものは意識を超越しているので気づきを意識しない
・全ての人類、また人類を超えた宇宙の方々の私、鉱物や物質などのあらゆる私であるものの私という意識、
その全マインドの意識そのものが「I・私」である、全てに共通している根底の主体の感覚、全ての私の奥にある
私意識である
・時間と空間と素粒子とオームによってこのマインドは造られている
思考とは
・上記のマインドが各種の頭脳(人類だけではなく、あらゆる次元での頭脳を有するものすべて)という条件付けを経由
して発生している意識であり、マインドがこの頭脳の条件付けを経由すると「私は肉体である」(若しくは私はこの体を有
する)という自己意識が発生する、これが思考であり、その記憶の蓄積が自我意識である
・が、しかし思考自体は自我意識そのものではなく「私と言う自他に分離されている意識」であり、自我意識とはその記
憶である
・思考は必然的に頭脳を経由した結果、自他に分離し、主体と客体に分割され、時間の制縛を受けている意識である
・思考は観察者と観察される者の分離、みるものと見られる者の分離、二元そのものの意識である
・この思考の記憶が自我である、従って自我意識の中身が思考であると言える
・思考・・・これが頭脳を経由したマインドの状態であり、条件付けられたマインド、若しくはマインドの頭脳からの
反応である
・思考とは「プログラム・条件付けられた脳」から生じている結果そのものであり、原因とはマインドを造ったところから
来ている
・行為と思考とは自我にとってみれば自分が行為・思考していると感じるけれど、行為・思考そのものは、根源からのプログラ
ムによってマインド→頭脳を経由してやってきているものであり、自我とは行為にも思考にも出来事にも関係していない、
自我はその頭脳を経由して起こっている行為と思考に記憶から反応している自己意識である
(けれどもその記憶とは思考と感情の記憶から成り立っている、それ故に観察者は観察される者であると言われているの
である)
・これらのことをラマナ・マハリシ的に言えば
気づき・観照者がスクリーンであり、
マインドがフィルムというプログラムであり、
光源は根源の真我であり、
スクリーン(観照者)にあたって繰り広げられている映像が思考であり、
その映像を観察して悩んだり苦しんだりしている者がその映像が生み出した観察者という自我であると言えようか
自我とは
・この思考が脳内若しくは脳外であっても蓄積されている状態=記憶、この記憶が自我意識である、世間一般常識的な意味
で主体と云われている、その自我としての「わ・た・し意識」である
・この記憶そのものが自我である、これが通常の現在意識での主体であり、肉体のことを自分だと思う私意識である、この自我は
脳内に縛り付けられているので、脳に起こっている行為と思考と感情を、そのまま自分の行為や思考や感情、意志決定だと
思ってしまうのである。けれども意志はプログラムによって起きている決定であり、自我には自由意志も選択もないし決定
もできない
・この記憶は記憶そのものの継続を願って輪廻を繰り返しているところのいわゆる霊魂でありプログラムに縛られている主体
である
・自我とは「プログラム・条件付け」の結果であるところの行為と出来事と運命と思考が脳内で起きているのに自分が行為
していると堅く信じてしまう記憶のことであり、これを自我という。これが名前と肉体と同一化した記憶である
・マインドのプログラムによって脳内に繰り広げられている思考を、自分が思考しているものと錯覚して、そうであってはい
けない、良くならなくてはいけない、改善しなくてはならない、祈らなくてはならないと思うのもこの自我・記憶である
・この記憶である自我が思考を観察しようとしたり、マインドを観察しようとしても自我自身が思考の記憶にすぎず
この頭脳の条件付けの結果であるので「見る」「凝視する」というような「思考の記憶が出来る事の範囲」を超越している
ような事である自己観察は出来ない。自己観察は観照者が行っている事である。
「見る」とは思考を挟まないことであるので、思考である自我には思考しないで見る事が出来ない。
思考の記憶が見ることが可能なるものは、その思考の記憶の出来る事の範囲内にすぎず、思考そのものを見る為には
頭脳の条件付けが外されて記憶・自我が終焉し消滅している必要が有る
思考が見る事ができるのは常に対象と、その対象に分離された主体であり、悲しみと苦しみと恐怖という思考自身だけである
・自我は悟りを開いたり、達成したり、真我を実現しようとするが、(実際には自我の拡大であり強化に過ぎないのに
これを美化してそう思っているだけである)
実際には既に実現しており、既に悟りを開いており、既に達成している、既に在る、既に愛そのものである
けれども自我にとってはその状態は想像することもうかがい知ることも出来ないので、自己の願望の満足を求めて
それに成ろうとし、努力し、そこへ至ろうとするのである。
これらの「探求すること」「真我実現しようとすること」は自我の働きである
「〜になろうとすること」「解脱を欲すること」「到ろうとすること」「神を求めること」「探求すること」が終わったとき、即ち記憶が
解消され自我が終焉したとき、それは求めなくとも既に始めから今此処にあるがままとして実在していたこととして領解される
と言われている
・私達がこここうして地球の何処かの国に転生してきていると言うことは私達は「自分は肉体と名前を持った個人」だと
信じているから故であり、言葉を替えて言えば私達がプログラムに過ぎない肉体と行為と思考を「自分が行為している」
「自分が生きている」と信じてプログラムであり運命を持っている肉体と自己同一化したが故に、カルマに巻き込まれて
輪廻転生しているのである
・だからこの意識している自分とは、まったく私ではなくて単なる記憶であり、同じく行為しているのはマインドの映画に過ぎず
真の私はそれらの全てを観照している「愛そのもの」「未知なる全体なる私」だということである
・このことの領解は自我という記憶に起こるのであって、真の私・観照者にではない
このことの理解およびその理解へのプロセスは所謂「悟りへの階梯」だがそれは記憶である自我に起こる事であって
その起こる事の全ては根源のプログラムであり、自我は根源によってコントロールされている根源の指人形であるから
私・観照者とは全く関係がないのである
・そしてこのプロセスは具体的には知覚と感覚の拡大・変化と言うことで自我・記憶には認識されていくことだろう
しかしこの記憶自我は私ではない、私と主張している五感を持った「根源の映像」にすぎない