私達は既に悟っている!・進歩は幻影だ!




このことを
昨日、一昨日と私は大いなる貴方に教えられましたことを感謝いたします

昨日も、一昨日も私は或る文章を、そしてかなり大規模な関連図を一日がかりでやっと仕上げました。
それは真我→観照者→意識の座  …そしてその意識の座が現象界においてマインドに被われ、自分・偽の我というものを作り上げ→その偽の我が実際には、その正体はマインドにしか過ぎないのに、それが輪廻転生を繰り返し、そうして最後には、悟る又は神我に至る、いわゆる進歩する又は進化するというこの根本から間違った考えでした

これを読んでいる貴方は
何処が間違っているのか、お分かりでしょうか?
「真我→観照者→意識の座  …そしてその意識の座が現象界においてマインドに被われ、自分・偽の我というものを作り上げ
→その偽の我が実際には、その正体はマインドにしか過ぎないのに、」
此処までは私は合っていると思います

ここから先が違うのです
真の私・観照者・意識の座は
輪廻転生はしていないのです
輪廻転生している実体は
マインドが作った想念の集積体なのです
真の私とは一切関係してません

「その偽の我が実際には、その
正体はマインドにしか過ぎないのに、」

これなのです
これが転生している実体であり
転生しその結果、進化し進歩し悟ると錯覚している
マインドそれ自体
であり
転生しているものは、マインドが作り出したもの、
マインドの想念の塊である
我という自我の想念形態です
実体のないものです

真実は私達は既に悟っており
進化して、又は輪廻転生してそして悟るというものはおりません

既に真我は神であり、完全であり、完璧なのです
既に悟っているのに
どうして悟りがあるのでしょうか

ですので
其処に到達する、又はそれを実現する、
又は輪廻を超越するという考え自体が
其処に到達すべき或る魂・主体などを想定させます

真我を実現するという考え自体が、
それそのものが実現すべき魂・主体などの存在を想定させます

輪廻を超越するということは、いま自分は輪廻を超越していない、
というある実体、主体を、魂を想定させます

そうではありません

其処に到達することはありません、
既に至っているからです

悟ることはありません、既に悟っているからです

真我を実現することはありません、
真我を実現すべき主体はマインドが作り出した単なる想念の塊なのですから実体は有りません
既に私は真我なのです
ということではありませんか

輪廻を超越することは有りません、
最初から輪廻などしていないのですから、
輪廻それ自体がマインドが作り出した夢なのですから。

私達は既にそこにいます
私達は既に非二元性であり、分離していません。
私達は既に最初から真我そのものです
私達は輪廻などしていません、現象界は夢なのですから
と言う結論に
私は導かれました。

昨日、一昨日と私は
悟る実体、進化する実体、それらを想定してかなり大がかりな、
意識界におけるこの諸相の仕組みを解明すべく
相関図をエクセルとワードで書き上げこのホームページに
アップすべくパソコンに向かいました。
入力すること数時間でやっと出来上がったと思った瞬間、
まず稽古場で作ったエクセルがいきなり電源が落ちてしまいました、
そして上書き保存していなかったので、
一瞬で消えてしまいました、
一生懸命復旧を計かりましたが、どうしても戻ることはありませんでした

そして、

翌日(昨日)今度は朝の6時半から再度ワードで書き上げ、
昨日のことがあるので何度も何度も上書き保存しました、
しかしどうでしょうか。
今度は自宅のパソコンの電源が、それもNECの水冷のかなり強力のマシンなのにいきなり電源が落ちて、どうしても書くことが出来ないのです。
NECに電話したり、パソコンの指導者に電話しても、もうお手上げ状態になったとき、私は気がつきました。
これは、私が根本的に間違った思考を続けている、と、
それを指導・指摘されているのだと。

そして、そのようにして、
いま私のパソコンは復旧して、このようにホームページに書くことが出来るようになりました。

ではその間違った考えはどこでしょうか
それは
「真我→観照者→意識の座…そして、
その意識の座が現象界においてマインドに被われ、
その結果、自分・偽の我というものを作り上げ
→その偽の我が実際には、その正体はマインドにしか過ぎないのに、」

ここから先を私は間違えてしまい、
真我に至るとか、悟るとかの実体を想定してしまいました

誰が悟るのでしょうか、既に悟っているのに、
悟るべき我は存在しないのに、
それは単なるマインドの想念でしかないのに


誰が真我に至るのでしょうか、既に私は真我であるのに、
真我は最初から私であるのに

しかし
このパソコンに向かっている、たった今の現在のこの自分
それはどうでしょうか
それは、この現在の自分は、真の私ではないとおもいます、
観照者の鏡である現在の私は、マインドに被われているとおもいます

そしてその結果、
この現在の私の(マインドの、偽我の)意識が受け取られ、
今このようにパソコンに向かっているのだとおもいます

このパソコンに向かっている私は、
存在しない私、
マインドが作っている私、
鏡である私を被っている私というマインドの記憶とその作用だとおもいます

本当はこの私は存在していないのだとおもいます、
私はいません
鏡を被っているマインドの意識だけだと思います。

この私という意識は鏡である観照者の一部を被っている
マインドそのものに過ぎないと思います
二元性そのものが自己を生みだし
その分離性の反省機能から私を生み出したのです

ですので
この私は私ではない、
想念形態のマインドが二元性で作ったものである、
実はマインドの反省機能そのもので作り上げた、意識作用がこのパソコンに向かっている、この偽物の自分の正体であるのではないでしょうか

この現在の私は
実は、偽物の我という意識状態の我である。とそう言えると思います。

ですので
この自分は進歩しない、
この自分は悟らない
何故ならこの今の私の意識は想念形態であり、
二元性と分離性のマインドが生み出した意識であり、
単なる条件付けられた記憶と
同じく条件付けられた脳により
生み出された、
自分という自我の想念の継承された蓄積想念形態なのだ。と

この私は、
この人格は、
この個人は、
この久保栄治という個人自身は、
根源から与えられた「素晴らしい肉体」と一体視しているにすぎない、

この個人の私はマインドがその二元性で分離性で作り上げた、虚構である。
単なる思考と記憶の塊である。
これが輪廻しているという概念の集積物を作っているのだ。
とそのように思われます。

しかし
真の私とは、この虚構を支えており、
真の私こそ「観照者の意識の座」であるとおもえます。

私は観照者の意識の座であり、
鏡そのもの、輝く鏡自体であり

其処に写っていて、
去来している思考や記憶や感情などの、
マインドの頭脳の条件付けにより誤って私と思っているそれらのものではないと今、分かります。

人類の頭脳の条件付けによりマインドによって発生している
記憶・
その記憶が更に生み出している思考、感情、想念、ワサナ達
それらは
この私である観照者の意識の座の前を流れ被っているのです、
そしてそれらが
この意識の座を被ってしまっている、塞いでしまっているのです

これが

私の現状そのものであり、現在の状況なのです
人類の頭脳の条件付けの結果そのものです
この現象界の私達のマインドは
人類の頭脳の条件付けが変われば
変わると思います
しかしそれは
真の私では有りません
真の私は
人類の頭脳の条件付けによって
左右されるものではありません
真我は観照者は
不変です
普遍です


上江洲義秀先生は
真我キリストはイエスに起こった特殊現象ではない、
真我仏陀は釈迦に起こった特別な現象ではない
といいます、

私達のこの意識の座に於いて、その闇が払われることにより、
本来の鏡が輝き出すことこそ、
私達にも真我キリストが、真我仏陀が

今後私達に起きる
と言われます




ニサルガダッタ・マハラジは
「忙しくてマインドを冷静に保つことが難しい」と訴える弟子に答えて
このように答えています

「それは、あなたが行為者だという幻想によるのだ。
実際には、
物事は貴方に対して為されるのであって、
貴方によって為されるのではない」


さらに続けてこのように言っています

「貴方の欲望は、それを満たすこと、
あるいは満たされないこととともに、
貴方に起こるのだ。


どちらにせよ、貴方には変えることは出来ない。

貴方は努力し、
闘い、
力を尽くしている
と信じるかも知れない。

それも又、
その仕事の結果と共に、
すべては単に起こるだけなのだ。

何一つ貴方によるものではなく、
貴方のためのものではない。」
































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