自我を見る事が出来ることこそ恩寵だ
B子さん:今日は自我を見る事、または自我の観察ということについて話してみたいわ
Aさん :そうだね、
僕は恩寵がなければ自我を見る事が出来ない(自我を見る事が起こる)と思うんだ
真の私からの恩寵によって自我(虚偽)を自我(虚偽)であると見る事が起こるんだとおもうよ
B子さん:え!! いつも私達は自己観察しているのではないのかしら?
Aさん :そうだね、自己観察、自我観察をしていると思い込んではいるけれどもね
自己観察している姿勢ではあるけど、またその
自我を観察し自我に気づいているつもりになっているけど・・・
しかし、本当にハッキリと自我を観察するためには恩寵がなければ決して見る事は出来ないと思うんだよ
B子さん:う〜ん
Aさん :虚偽を虚偽と見る事とは、真理(恩寵・真の私)の働きであり
光が輝かなければ、へばりついているゴミや塵が見えないように
恩寵という光が輝くことによってのみ、虚偽であるものがハッキリと見えてくるんだと思うよ
この強烈な光が自我という闇を暴き、照らしだし白日の下に顕わにし、そして消滅させることが出来るのだと思うよ
B子さん:でも、私はね、自我の動きである恐怖や不安や欲望をいつも観察しているのよ
私は自我を観察しているわ、だから自分の内部に不安や恐怖や、そして分離というものに気づいているわ・・・・
それをAさんは、観察していない、気がついていない、見ていないというのかしら・・・?
Aさん :そう、そこだよ、
通常それらの自分の内面で自我や欲望や恐怖や不安を観察していると言うことについてなんだけど
実際には、その観察しているということとは
見てもおらず観察もしていないんだよ、
(自分では観察し、見ているとは思ってはいるけれどもね)
その自我である働きや自我を観察していると思っているものこそ、当の自我自身であり、
その自我には決して自我を見る事が出来ないんだよ、(自我であるものには目がないので)
従って自己観察は出来ないし、してもいないんだよ、
勿論、自我は「自分は意識があって、目があって、見ているし、認識もしている」とは思ってはいるけど、
それは目でもなく、「認識」でもなく、「意識」でもないんだ・・・とおもうよ
自分の内面に欲望や慢心や焦りや葛藤や恐怖を発見しているものこそ、その欲望や慢心や愛のなさ自身だよ
イライラ、葛藤不安、恐怖それ自体だと思うよ、それはそれらの葛藤を見ているのではなく、恐怖が恐怖している状態
不安が不安である状態、欲望が欲望している状態、葛藤が葛藤している状態なんだ
その状態とは「見ている」のでは決してなく、その恐怖を見ていると思っている状態がその見られている恐怖自体の
状態なんだ
恐怖とは分離しているので、恐怖の観察者と恐怖である観察されるものという分離を生み出しているのだ
欲望というものを見てもいないのに、欲望自身が自身を観察している観察者というものをでっち上げているだけであり
その欲望を観察している「欲望の観察者」こそ欲望であり、それは「絡み巻き込まれている状態」なのであって、
欲望というものには、正しく欲望を観察し見る事とは、決して出来ないということではないかなぁ、
見る事や観察するということとは、「在る」こととおなじように上位次元に属することであり、記憶に属する働きではない
と思うんだよ
自我という「自と他を別々である」との認識をしている幽界次元のレベルでは、この「見る事」「観察すること」は
決して出来ることではないんだ、これらの幽界次元では必ず、自他の分離である記憶に支配されているので
自分以外に対象が外部に有ると信じており、この分離が欲望を生み出し、欲望を成就するとか、しないとかの
○○に対しての権威を祭り上げ、それによって支配される「支配の構造」が生じてくるわけだ
そういうことであるから、これらの次元である特徴の
疑似観察というものとは、「見てはいない」状態なので、
その見ているものと、その見られているものからの自由
その自我からの(欲望や恐怖や葛藤や苦しみからの)
自由も解放もないわけだとおもうよ
B子さん:そ〜か、それで「分かっちゃいるけど止められない」というような事が人生の中で延々と続いていくのね
自称、自己観察をしている人が決して自我から解放されないのは
けっして自我を見ているのではなくて、自我によって自我を見ているんだという「思い込み」をしているだけ
なのね・・・
だから、いくら本を読んで自己観察や自我観察や自己想起をしているつもりでも、それはつもりであるだけなので
決して自我や恐怖からの解放や自由がないのね
Aさん :そうだと思うよ、恩寵が、恩寵こそが、恩寵ゆえに自我がハッキリと見えてくるって言うことだ・・と思っている
恩寵である光が輝かねば、汚れは決して見えないし、その汚れを恩寵によって見えたときが自由になるときだと思うよ
そして、その恩寵が自我を終焉させるのであって、そこにはこの恩寵を得ることを欲する意志や努力や念願や認識を
している主体である記憶という自我には関与できる事ではないと思うな
自我を終焉させるのは自我ではなくて恩寵なんだ・・・
そしてその恩寵が(自我の終焉のために)自我をハッキリと見る事を、自我の暴露を始めるんだよ・・・・
B子さん:私達、真我探求者が自己観察をしていると思っていても、なかなか自我から解放されないのは
自我を見ていると思っているだけで、実際は自我と自我の働きを見ておらず、見ているつもりになっているだけだ
からなのね
自我には自我が見えないからなのね・・・
Aさん :上江洲義秀先生が体脱してヒマラヤで聖者に会ったときなんだけど
その大聖者に会ったとき、恩寵で上江洲先生が自分には未だ残っているとは考えてもいなかった、
へばりついていた「自我の残滓」が山の麓まで流れていたことを見る事が出来た・・と言われたが
本当に真我の恩寵が起こったときは、「真の私の目」が働き出して、心の中の一点の汚れさえも、非常に大きく
ハッキリと観察されると言うことなんだよね
通常私達の認識や知覚とは薄暗くてよく見えないものなので、その汚れや自我の全貌を見る事は出来ないのが、
恩寵の強烈な輝きで、「真の私の目」が輝き出して虚偽を虚偽と見る事が出来るという事なんだよね
B子さん:それでクリシュナムルティーは
「虚偽を虚偽と見ている事が真理である」といわれ、さらに「真理を真理と見ること」と言われたのね
ただ、ここで注意しなくてはいけないのは、この見る事とは自我による自我の観察ではなくて
見る事の出来る「開眼している眼」の働きであることであり、それはこの自我ではなくて「在る」ことを自覚している
「目」の為すことであり、その為には虚偽を見ようとするための絶え間ない挑戦が求められるし
内側と外側を超越したところからの恩寵が、それに応えてその「見る事」を引き起こしていると言うことなのね
Aさん :そうだと、僕は思うんだよ
この恩寵が無ければ自我を見る事も出来ないし、虚偽を虚偽と見る事は出来ないと思うよ
けれどもこの恩寵はやってくることであり、引き寄せることは出来ない
何故なら恩寵を求めること自体が自我の働きであり恩寵から遠ざかる事だと、教えられている
聖者の言葉によれば、この真我からの恩寵は既に「いまここあるがまま」に実在しているということか・・・
この恩寵こそが真の私(全体なるもの)だと言うことなんだよね
B子さん:その辺のことは、この記憶や言葉や知識や理解や知覚ではまったく接近できないことだわ
また知識や記憶や理解では接近することは出来ないばかりか、その知識で接近しようとすることは
それを否定することにもなりかねないわ
愛とか真我や真理に、この記憶が、知覚が認識が接近しようとすることはそれを否定する動きなのよね
Aさん :うん、僕もそうだと思う
だから、このマインドとその記憶である自我の動きに気がついたときに、自我とその働きに気がつくこと
が起こったときに、自然に思考と記憶から離れて行くことが始まるのかもしれないね
B子さん:静寂と言うことね
Aさん :沈黙の始まりかもしれないが、それもやはりおこることなんではないかなぁ