反応も条件付けられている
覚者達、は
揃ってかくのように言っています
「私」は肉体に関与していない
「私」は運命に関与していない
「私」は出来事に関与していない
「私」はこの思考や情念や感情や欲望に関与していない
「私」はこの自我である私に関与していない
であるので
この肉体も
この運命も
この出来事も
この思考や感情や欲望や傾向も
そしてこの私という自我も
ただ起きている
ただやってくる
ただ過ぎていく
と
「私」は
この肉体でも
この運命でも
この出来事でも
この思考や、感情や、不安、恐怖、欲望でも
そして、この私でもない
「私は在る」
と
「私」は認識できないもの
「私」は未知なるもの
それに加えて
さらに詳しく見てみると、勿論
私にやってくる、所の
思考や感情や想念は私ではない
私にやってくる塊の想念、感情や気分や傾向はわたしではない し
また私に
やってきたところの、それらの中身である
嫉妬心や暴力や恐怖心や不安心、イライラや猜疑心に対して
それに反応し
逃げようとすること
避けようとすること
良くなろうとすること
一体化しようとすること
等々の
それらの
これらの反応そのものこそは
条件付けられた頭脳や
プログラムに従って
当然に発生したもの
その反応も起きている
行為・行動が起こり
良くなろうとしたり、
逃げようとしたり、
変えようとしたり
一体化しようとしたり
悟ろうとしたりするように
そのようにプログラムされ仕組まれているのだと思う
要するにそれらに対する反応であるところのもの
すなわち
偽我である人格の動きすら
プログラムの範囲内と言うことなのだと思う
そのやってきた思考に対する反応行動
エゴの反応行動も
それらは私ではない
その反応行動もやはり私ではない
その反応行動はエゴ、自我と言われ
具体的にはそれら恐怖や暴力など不安との一体化であり
または
それら恐怖や不安・暴力からの逃避や
逆に自分が良くなろうとすること、
又はまったく無視するなどの
反応行動であるけど
その自我の、エゴの反応行動は
私ではない
それら
自我の反応行動は私ではない
それらの条件付けられた
エゴの反応行動は
私ではなく
起こっていることに違いない
私はそれに関与していない
その自我の反応行動も
結果であり
プログラミングに従って
起こっていることだとおもわれる