蛹から蝶へと



多くのアプローチが存在している


意識、現実、私などに対しての真剣で真摯な取り組みが行われてきた

この取り組み方のうち、

より心理学的、哲学的方法で取り組んでいるのがアドヴァイタの系列であり

より質料的、科学的方法で取り組んできているのがクリヤヨガの系列である


この道は、どちらがどちらより優れているとか言うことではなくて傾向の問題である

自分の傾向によって進む系列が異なってしまうが、目指すところは同じである


両者共に、眼目であるのは「蛹から蝶への脱皮、眼を持った本当の私の誕生」である

新たなる「あるがままを見る事の出来る眼」を持った私が誕生する事である


この誕生こそが、両者ともの共通する主眼であり、

この両者に共通しているキーポイント・「鍵」が、この蛹から蝶へと誕生する事なのである

その蝶とは、見る事の出来る眼を持った真の私の誕生である

そしてその「鍵」こそが、


あるがままに対する正しい全託、正しい全受容である



・・・・しかしこれには注意を要するのだ、逃避のために全受容するのではなくて

「自我による、自我のための、自我が行う真我実現」の為の全受容でもない

それは、そのような間違っている全受容ではなくて、ただただ正しい全受容であるからである。


正しい全受容とは、「正しい自己観察」を通した全受容である

「見ることのできない私・眼」を観察する「自己の観察」を通じた愛のある全受容である


正しい全受容・・・これが蛹から蝶へと脱皮し、新たなる眼をもった真の私の誕生となる鍵であることだろう


表現の方法は少し異なってはいても、アドヴァイタに於ける全受容とは

あるがままをあるがままに見ることにより、この見ているあるがままのなかに、本当のあるがままが生まれることである

と言われている

「私達は行為していない、神が行為している」ことをハッキリと直視しようとすることが、あるがままを見る事へと通じている

「私達は何も持っていない、私達は何も所有することはない何故なら私はおらず、全ては神だからだ」ということを

ハッキリと直視しようとすることが、あるがままを

見る事へと通じている


私達があるがままを見ていると思っているとき、

見ている私達とは決して主体ではなく、真の私ではない

その自己とはあるがままが生み出したもので有り、条件付けの結果である


その生み出された「記憶である自分」が自分のことを主体だと思っているに過ぎない

観察者は観察されるもので有り、観察されるものは観察者であると教えられている

その主体とはあるがままの結果であり、決してあるがままを見ておらず、見る事もなく、見られないのである、

「眼」がないからである。

「私達である偽の主体の自己」とは眼を持っていない。

この眼も、この私も、あるがままが使用している私であり、眼なのであり、それゆえに「見ることの出来ない」

偽物の眼に過ぎない。



この偽の主体である私達が見ているあるがままとは、この条件付けられ限定された「眼」によって見ている

偽りのあるがままにすぎない。その偽りの私という記憶によって、二次的に生み出され映し出されている

対象とは



それはあるがままではなく、主体ではない私が生み出している幻想のあるがままである



けれども真実とは、あるがままがあるがままに生きており、あるがままが起こっているのであり

あるがままが、あるがままにあるのである。


この私達が主体であり、「自分が生きて、行為している」とあるがままによって、偽の私が思っているのである。

ということだ

この私達とは、あるがままの結果であり、自分が生きて、自分が思考して、自分が意識して、自分が行為して、

自分が苦しんでいると思っているが、その主体である自分とは私ではけっしてなくて

あるがままによって演じられ、使われている自分に過ぎない。

主体とはあるがままであって、この私達の自分とは決して主体ではない、この私達とは真の私ではない


このことは、起こっている肉体や、思考や、感覚や、知覚や「自分という主体感覚」を観察すれば分かることだ


この肉体も、思考も、感覚も、知覚も、自分も、そして起こっている出来事も、やって来ていることも、運命も

全ては、あるがままに起こっている事であり、あるがままがあるがままに演じられていることなのである

自分という私達の分離して限定されている主体は生み出され、起こっており、演じられていることなのである


全ては、あるがままがあるがままに起こっている

そのあるがままを知るということは、あるがままの結果である私達にはできない

私達があるがままを受け入れて、あるがままの私として誕生したときにあるがままを知る事となる

あるがままであることができる



その鍵こそが、あるがままを受け入れることであり、あるがままを全受容することである


起こっている事とは神聖なることではないのか、肉体や諸身体とは、頭脳とは、神聖なることなのではないのか

思考や感情も神経も五感も神聖なることではないのか、

なぜなら、それは根源なる神聖なことによって起こっているからだ。

知覚や体験も神聖なることであり、神聖なることによって起こっているからだ。それは神聖なる事である。

知覚や五感や思考や感情なども決して結果であるこの私に出来る事ではない。

全ては神聖なる事であり、神聖なる事から起こっている、神聖なる事しかないのである



その神聖なる事、超絶していることがあるがままであり、至高なる方であり、あのお方であり、神我である

それこそがあるがままの本当の姿である


けれども、蝶へと変身した私が誕生していない限りは

この「あるがままである主体ではない私」は、決してあるがままで在る私としてあるがままを見ることは出来ない


そのあるがままを知るにはあるがままへと脱皮し、蝶のように脱皮しなければならない、

眼が誕生しなければならない

その脱皮こそが、新しい私の眼の誕生であり、私の誕生である

その為には全託が、全受容が求められる

それが、あるがままへの正しい全託であり、あるがままへの正しい全受容なのである


私のものは何もなく

私であるものはなにもなく

私は何者でもない、この主体と思っている私は私ではない


全てはあるがままが、あるがままに在るだけなのではないか、と






戻る