体外離脱


Aさん :今日は体外離脱について、話してみたいんだけど

B子さん:いいわよ、私も何種類かの体外離脱を経験しているんで・・・

Aさん :というと

B子さん:一つは、よく臨死体験や金縛りの状態や瞑想中に体から抜け出る、いわゆる普通の幽体離脱と言われている体脱ね

      そしてもう一つは、観照者が諸体から抜け出て肉体を見ているというものなのよ

      この二つの違いは非常に大きくて、例えば通常の体脱では、抜け出された肉体は眠っているけど

      観照者とか未知なる私とか、大文字の魂(これを霊と呼ぶ神道の系統もある・一霊四魂の場合の一霊など)が身体を

      抜け出した場合は、見られている自分の肉体は眠っておらず、通常通りの毎日の生活をいつも通りにしているわ

      (ただこれを実際に体験している時の肉体の状態は瞑想状態にあるが)

      ただこの観照者は非常にハッキリと明確に、肉体を自我(霊魂)が乗っ取っている状態を見ることが

      出来るわ、それも見えるのはこの肉体だけではなく、廻りの状況も肉眼や霊眼以上に全体がくまなく見えるのよ

Aさん :ふ〜ん、それは面白いね

B子さん:そういえばバーナデット・ロバーツも

      「あるがままを見るためには自己から離脱して初めて“あるがままを見ると言うこと”が可能になる」と言っているわね

      それは自我という(霊魂の)フィルターを通じては本当のあるがままは決して見ることは出来ない、この自己若しくは

      主体である自我(記憶という霊魂)から離脱して、初めてあるがままを見る事が出来るという事ね

      この私の体験は実は自分で起こしたものではないのよ、それは恩寵によって「チッラ見」させて貰ったものなの

Aさん :ふ〜んそうかい・・

     ここでバーナデット・ロバーツが体験した体外離脱のことを述べている箇所があるので紹介するよ

     「厳密には体外離脱という言い方は正確ではありません。というのも、実際のところ、私達が体の外に出ることは

     ないからです。しかし、その表現が言おうとしているのは、私達が自分の内部の分裂に気がつくことが出来る

     ということで、より正確には、この気づきが「体外」と呼ばれるのです。」

     この文章を理解するのは難しくて、此処で彼女が言っている「体外」というところの「体」とは肉体だけではなくて

     神道で言われる一霊四魂の場合の四魂のことであって

     詳しく言うと肉体、感情体(幽体)、思考体(霊体)、自我体(霊魂・これが記憶の蓄積した自己意識を持っている

     主体である)を体と云っているんで、この四魂から離脱することを彼女は「体外」と云っているわけだよね

     通常の幽体離脱はこの分類からすると、単に肉体から幽体が離脱しただけであり、決して「体脱」したわけではないと

     云うことになるわけなんだ

B子さん:そうね、貴方の云うことは合っていると思うわ

      だから幽体が肉体から離脱しただけの状態では記憶が作り出している諸々の次元界に迷い込むことになるわけで

      それを体験して、さも自分は幽界や霊界など、果てには神界までをも、あらゆる階層に於いて経験したと思っても

      それは実際には体脱しておらず、肉体から離脱した霊魂が「あるがまま」ではない三千世界という集合無意識界

      や潜在意識界の中を浮遊しているに過ぎないと言うことなのよね

      それは低次元界よね、もし高次元界だったら見る者と見られるものが分離しているはずがないからね

      それに過去や現在や未来という時間も、分離しているマトリックスの空間も消滅しているわ

      だから真の体脱で体(四魂)から離脱した場合のみバーナデット・ロバーツのようにあるがままを見る事が起こる

      と言う訳ね

Aさん :この体脱について彼女はまた続けて云っている

      「存在のなかの“未知なるもの”が体を超える、あるいは体の外に出る−−−−これを「魂」や「心・サイキ」ではな

      くて「霊・スピリット」と呼ぶことにしましょう。

      この活動の中で、霊は全ての祝福を得、そして体はすべての思考と感情を得ます。その霊を体に引き戻し

      祝福を台無しにするのは自己意識(久保注:自我・霊魂)です。
     
      私が私の思考と感情に-意識を向けて霊と体の分離を意識したとたん、その体験は終わりました。

      まさにここでその自己意識(久保注:自我・霊魂)が、自己(又は存在)がもつこれら二つの面(起こっている

      投影されている肉体・思考・感情と並びに体脱している未知なる私である霊という二つの面ということ)

      を繋いでいること、

      そして自分の事を意識している限り(久保注:自己関心に囚われている限り、動機と目的を持っている限り)、

      その祝福に満ちた自由な状態を維持できないことを知りました。 

      -中略−これは無自己に到達する方法ではありませんし、そもそも

      私達はそこには自力で到達することなど不可能なのです」

      「内省しないこと(久保注:思考の記憶である自我の機能の一つに補足されてはいけないということ)即ち

      内面に意識を向け、思考や感情に注意を払わないことによって(久保注:通常の思考に注意を向けている状態

      とは決して注意を向けている状態ではなくて、思考の焦点を合わしているだけなので、実は返ってその葛藤で

      ある自我の状態の恐怖や憎悪と云った思考や感情を増大させ強固なものにしてしまうことになるので、

      それらの思考や感情に分離しているところの思考の焦点を当ててはいけないと云うこと、クリシュナムルティー

      などが思考を見なさいと言っている場合のその「見」は分離思考の目ではなくて、思考が停止した未知なる私の
     
      目のことであろうと思われます)、

      人は祝福に満ちた自由な状態を生きられることが分かったのです。

      もっとも、そうするためには体外に出なければならないようにも思われました」

B子さん:ふ〜ん、そ〜か・・・このあたりの事は非常に良く分かるわよ

      私も、恩寵によって幽体離脱ではなく、霊が四つの体から体脱したとき、チラッとだけだけどあるがままが見えたの

      この肉体の行為と思考と感情と欲望は根源がしているプログラムである事、これは聖なる根源の起こしている

      出来事であること、そしてそれに取り憑いている自我が何の自由意志もなく、行為もしていないのに

      自分の自由意志で行為して生きていると思って頑張って努力している様を

      そして、この自我の考えていることとは自分の事ばかりで、愛というものも、他人を思いやることは微塵もないのに、

      「自分は求道者で愛深い善き人間だ」と思い上がっている「嘘」を見させて貰ったのよ

Aさん :そ〜か
     
     非常に興味深い話だね、ところでこの体外離脱と云うことだけど

     エレブナでも何故あれだけ、体脱ということを重要視するのかが分かったよ

     エレブナでは通常の体脱とは決して体脱ではなくて、無意識界という三千世界に迷い込んでいることだと云っているんだ

     そのエレブナの云ってることがバーナデット・ロバーツの体験からも、君のそのチッラ見からも教えて貰ったような気がする

     それにクリシュナムルティーが「体外離脱」と言うことに対してそれは体脱していないんだといっていることも
 
     分かるような気がする

B子さん:ともかくも、一つである私達とは霊として、霊魂ではない「スピリット・魂」として、そして未知なる私・観照者として

      (教えの流派がいろいろあるので言い方が多くなって申し訳ありませんが)

      既知なる私には知覚も経験も認識も理解も出来ないけど、現実にこの肉体に繋がれているわけよね

      けれどもこの肉体は決して悪いものではなく聖霊の司っている聖なる根源の媒体だということ

      良い悪いではなくて、この一つである私達を肉体に繋ぎ止めているものが自我という自己意識であることは

      きっとこれはまた現象界を生み出し運営している根源のプランなのね

Aさん :そうだと思うよ

      聖霊の司っているこの肉体も、そしてその行為も思考も感情も出来事も

      真我から生まれたマインドであるこの自我も、この自己意識である霊魂も自我も

      そして現象界に繋ぎ止められている観照者というスピリットも

      全てが全体の一部分であり、大いなる根源の経綸の一部なんだよね

B子さん:あの、映画のマトリックスの最後で、敵と味方である「予言者」と「設計者」が握手しているシーンがあったけど

      根源が造りだしている壮大なる経綸なんだよ

      良い悪いではなくて、全てが根源から生じて、そして根源へと戻っていく過程なんだと思えてくるわね

Aさん :実際には個人や個別な霊魂など存在していないんだよ

     その個人や霊魂も大いなる根源の私自身だものね

B子さん:そうね、私もそのように思えるわ・・・ 









      

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