意識の座とは
意識の座とはなんだろうか
しかし
その前に
想念や意識と気づきの次元の相違について考えたい
いやいや次元などというものではなく
錯覚と真実といった方が良いのだろうかもしれないが
『「気づき」は意識の中に立ち現れる
意識の中には、意識している「私」が存在している
一方、気づきは分割されることがない
気づきは、それ自身に気づいているのだ
「私は在る」は一つの想いだ
一方、気づきは一つの想いではない
気づきの中に「私は気づいている」という想いはない
意識は属性だ
一方、気づきはそうではない
人は意識していることに気づくことが出来る
だが、気づきを意識することはできないのだ
神は意識の全体性だ
だが、気づきは存在も非存在をも、全て超えている 』
とこのようにニサルガダッタ・マハラジはいわれる
この場合の使われている意識という言葉の意味とは、意識の座で認識されて二元性の意識であり
想念や思考や感情や記憶や欲望を認識している意識でもあり、
マインドを認識しているマインドの意識、
「即ち見る者と見られる者」「観察者と観察されるもの」「知るものと知られるもの」
「主体と客体」という分離そのもの、
二元性そのものの意識であり次元であると思われる
ここで使われている「気づき」という言葉の意味とは、
「見るものは見られるものである」である状態、
あるがままの状態、
私たちの現在の意識では認識できないし、知ることも出来ない未知なる意識、
非二元性、非分離性の意識次元、
この状態こそ人類のアセンションが到達するべき意識次元と思われる、
ここには自他の分離もなく、
ラマナ・マハリシのいう
「世界が実在として現れるとき真我は現れない、真我が輝いているとき世界は現れない」
という、この真我の意識次元であり、上江洲義秀先生の言われる一命一体の意識次元でもある
ここでニサルガダッタ・マハラジが述べているように
人は意識していることに気づくことが出来る
だが、気づきを意識することはできないのだ
神は意識の全体性だ
とあるように「気づき」の次元は意識(意識界の全てに)に気づいていることが出来、
それは
上江洲義秀先生の様に「真我」という気づきの次元においては、
その下位の次元に気づくことが出来ると思われる
従って、その真我の気づきはこの現象界の意識や意識界全般に気づき事が出来
上江洲義秀先生のように
具体的な救済の手を差し伸べておられるのだとおもう
しかし
ここでニサルガダッタ・マハラジが述べている
「神は意識の全体性だ」のことであるが
これは真我という「 I AM THAT I AM 」である非二元性の絶対なる私である神を指しているのではなく
あくまで、意識界というものの、現象界である分離の世界を統括している意識的存在を指していることに注目したい
だからここで彼が言われている神とは「私である真我の神」のことではなく、
現象界という意識界の集合意識としての分離した人格存在の神であるということだと推測される
さて
以上のことを整理した上で
表題の「意識の座とは」に戻りたい
意識の座とは真我の現象界でのポイント点ではないだろうか、
であるので正しくは「気づきの座」と言った方が良いのかもしれない
だから
意識の座とは観照者なのだと思う、これを絶対主体などともよく言われており、主体−客体の二元性ではない非二元性である私の「意識界における座」色んな現象界を出現させている場そのもの、スクリーンそのものともいえるのではなないだろうか
では現在の私たちの「意識の座」において、認識され、知覚され、体験され、記憶されているものはなにか
何が「意識の座」において認識され、知覚され、体験され、記憶されているのだろうか
それは、この「意識の座」という「非二元性である気づきという目そのもの」が
すっぽりと色眼鏡である二元性という分離の意識によって覆われているために
「あるがまま」は見ることも知ることも出来ないのだ、とそのように思われる
だからこの二元性という現象界である分離の色眼鏡で見る限り、
全ては見る私と見られる私に分離し、
本来は私そのものであるものを私ではないもの、即ち他人として、外部として知覚し、認識し、体験され、記憶されてしまうのだといわれている
この色眼鏡という現象界の二元性の意識で見る限り、
そこには「見る私」「主体」「観察者」「体験者」「知覚するもの」である自我(エゴ)が生じてしまう
そしてこの二元性の意識が認識し、知覚し、体験し、記憶した、その意識の想念こそ自我(エゴ)を作り上げているものであり
この観照者の「意識の座」に最初に現れたこの二元性の意識・想念こそ自我(エゴ)そのものであり、
これが輪廻転生している、想念という本体であるといわれている、
現象界で真我から発生し、
そして成長し、学び、
最終的には、
自らの二元性である意識が認識し、知覚し、体験し、記憶した、その意識の想念であることに
それ自身が「気づく」とき
即ちマインドがマインドの虚偽を理解するとき
この自我(エゴ)は現象界の本来の目的を果たし、帰還することが出来る、
観照者である真我へと
その想念である自我(エゴ)は真我である観照者から出てきた、偽の「私」であった、と
そして
ながい転生を終えて、学び成長し、気づくことが出来た私は本当は存在していなかったと
このように要約すれば覚者達の説明を朧気ながらすこしだけ記述することが出来るかもしれない
しかし本当の意味で、ここに至るためには
実際の「意識の座」に懸かっている色眼鏡である自我(エゴ)が取り払わなければならない
この取り払われると言うことは
実際の、現在のこの自我(エゴ)が自我(エゴ)として成長し、成熟し
この知覚は自我(エゴ)が知覚しているのであること、従って真の私である観照者の知覚ではないこと
この認識は自我(エゴ)が認識しているのであること、従って真の私である観照者の認識ではないこと
この記憶は自我(エゴ)である自我(エゴ)の記憶であり、真の私である観照者の記憶ではないこと
この体験は自我(エゴ)である自我(エゴ)の体験であり、真の私である観照者の体験ではないこと
この意識は自我(エゴ)であるマインドそのものであり、真の私である観照者の気づきという意識ではないこと
この行為者としての私は自我(エゴ)である想念の錯覚であり、真の行為者は根源であること
ここに起きている出来事や運命は自我(エゴ)である想念の集合体は関わっておらず、
根源が有る特定の肉体に起こしている運命や出来事であって聖なる現象であること
これを錯覚して、自我(エゴ)である「私」が「自分の」肉体であると錯覚していること
またこの自我(エゴ)である想念が思っている行為しているのだ、
自分の回りに自分が出来事を起こして関与していると錯覚しているに過ぎないこと
本当は、この肉体及びそれにやってくる出来事は運命として聖なるドラマであるのに
自我(エゴ)はそれらの肉体を自分のものと錯覚し、出来事を自分がしていると錯覚してしまったのだ
現象界のドラマは根源の聖なるドラマであり
自我(エゴ)は関与していない
そしてこの現在の意識である、この自我(エゴ)自身が、深く成長し、成熟し、
自我(エゴ)である想念のサイコノエティック体が完成されたとき
その時始めて、準備することが出来る
真我である観照者との結婚に、合一に向かうことが出来る
このことをさして上江洲義秀先生は聖書を引き合いに出して
花嫁は花婿を迎えるべく準備をせよと言われている
しかしこの合一はマインド側から見た場合は磔でもあり、消滅でもある
それは私自身から、真我からやってくる
花婿とは真我である
これは
自我(エゴ)の完成であると同時に
それは
自我(エゴ)の磔であり、合一であり
本来、存在していなかったことを「気づく」その聖なる時でもある
そして、この合一こそ
現象界に焦点を合わした観照者の目的でもある
それこそ成熟した自我の消滅
この自我(エゴ)の終焉でもある