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「神が行為している」、とを実感するのは



ラーマクリシュナは究極の次元から云う

「行為は神がしている、が人は行為していると思っている」



それにも関わらず、その彼の言葉を信じていても、

私達は自分が行為しているという実感を持ち、そのような感覚・知覚から離れられない。

それなので

私達の目の前には、戦争があり、苦しみがあり、悲しみがある。

そして、自他の分離がある。

私達に自他が分離しているという実感、個人という実感があるかぎり
いくらラーマクリシュナやラマナ・マハリシの云うように
行為は神がしているのだと教えられて、そう信じていても、自分が行為しているという感覚と実感に
支配されている。

その実感がある限りは
私達の眼は覆われており、
騙され続けており、
映像を見させられ続けており、
真実を見る事は出来ない。

見る事が出来る眼と繋がっていないからである。

私達が見ている眼に映っている世界
そこには戦争があり、悲しみと苦しみがあり、不公正と差別、飢餓とテロ、悪と正義、愛と憎しみ、自己と他人、
見る者と見られる者の分離がある

それらの二元分離の実感と知覚があるということは
即ち私達の眼が覆われており、且つ真実の眼とは繋がっていないからに他ならない。


私達の眼が、高次の私の眼と繋がっているなら、二元分離は存在せず、「見るものと見られるものの分離」もなく。
全てがただ一つであり、神が全てであり、全ては神であることであろう

にも拘わらず

そのようには見えず、
自分自身が肉体だと感じ、自我や個我が自分自身のように感じ、
自分が自我や個我の思考と感情を知覚認識し、感じているのは
この「感じている自分自身」こそが自我や個我であるからにほかならない。

それはこの幻想を知覚しているのが、幻想の自分であるからである。

この分離を実感し、知覚しているのが幻想の私であるからこそ
従って、世界が不完全に見え、宇宙に争いがあるように見えるのである。
この幻想の私が、幻想であるが故に、幻想を見せられているのである

幻想を見ているのは幻想の私である。


どうしてかといえば、それは、その「幻想の私」の眼が「高次次元の私の眼」と繋がっていないからである。


ラーマクリシュナやラマナ・マハリシの眼が「高次の私の眼」なのであり、その眼は正しく見る事が出来ている訳である。

そこには、「神だけがあり」、「神だけが行為している」という実際の感覚があり、知覚がある。

その高次の知覚と、高次の感覚のなかには、「全き自由」が在り、自由意志が有り、一切の束縛がない。
何故なら、神しかいないからである。神が私と別れておらず、すべてが神として一つであるからである。


自と他、私と神、見る者と見られる者の分離という二元性の夢が消失して
「見るものが見られるものである」とき、全てが一つである。

その神の目である「本来の自己・神の自己」と繋がっているとき
「すべてが完全完璧」しかありえないであろう。
「全てが完全完璧である」を見ているのは、神そのものの私であるからに他ならない。

そして、この高次の眼の状態の時
クリシュナムルティーの云うように「選択があるところには自由はない」を自分の言葉として言うことが出来る。


しかし、それが
私達には逆さまの様相に見えている。
逆さまに知覚され、逆さまに体験され、逆さまに経験される。

この偽物の私がいる限りは、逆さまに知覚し、逆さまに体験し、逆さまに経験する。

自分は個人として、他と分離して存在しているかのように見える
自分が個人として生きているかのように見える
自分と他人とは、一つではないかのように見える
自分は輪廻転生している、かのように見える
自分には過去生があり、始めがあり、終わりがあるかのように見える
自分は時間の中で、進歩しているかのように思える
さらには
自分と神とは分離しているかのように思える
自分が行為しているかのように思える
自分には自由意志が有るかのように思える
自分は自分自身で考えているかのように思える

これらがこの私、即ち「幻想の私」の特徴である。

これに反して
ラーマクリシュナやラマナ・マハリシは
私達は行為していない
神が行為しており
神が「真の私」であると云っている

またそれと同時に
ラーマクリシュナ達は
魂の内なる眼が輝くには
即ち
真実の私を実感し、体感するには

私達に対して最大限の努力と
最大限の弛まざる日々の正しいワークを行う事を要求されている。


仏教的に云えば、八正道の完全なる実施である


「正しい全託」と「正しい観照」である
「自分がして貰いたいことを、まず人に与える」事である
「汝の敵を愛する」事であり、「左の頬を打たれたら右の頬を差し出すこと」である


これらの覚者方の発言は一見すると
「人は行為していない」と云っておきながら、「正しい行為」を求めるのは
矛盾しているかのように感じるが
決して矛盾していないのである。

覚者方のいる高次元から見た真実の言葉と、
この「真の私」の眼と繋がっていない「幻想の私」のいる次元での「幻想の私」への言葉があるのである。

覚者方は、あらゆる次元からあらゆる次元を見ており
行為は神が行為しているという次元からも見ており
同時に
神が行為しているのに自分が行為していると思っている次元の事も見ておられる

それ故に、この次元で彷徨っている私達を愛して下さり、覚醒させようとしておられるのである

「私達は行為しておらず、神が行為している、神が自由意志で行為している」
という真実が本当に実感できるようになるには

私達には
この偽の自由意志、自分が行為しているという偽の感覚を使って正しい行為をしなければならないのだ
正しく見なければならない


即ち
この「偽の私」の自由意志と、「偽の私」の行為しているという感覚を用いて、
最大限の努力をせよ・・ということだ

この「幻想の自己」が生まれたのは、
この「幻想の自己」の自由意志と行為を通じ
この「自己」が「幻想」であること、とを実際の実感と直覚を通じて理解し
自ら本来の自己、即ち神の自己を知るためである
・・と・・云うことだと


この偽の私が持っている自由意志と行為を通じて
この偽の自由意志と偽の感覚が消滅するように、
・・・即ち
「真実の私の眼」と繋がることが出来る様に
最大限の努力をするのである、
この「幻想の私」が自らの自由意志でもって
最大限の正しい努力をするべきなのである、ということではないだろうか。


何故なら
私達である幻想の自己には、自由意志が与えられているからである
この個我にも、そしてこの自我にすらも、この現象界での自由意志が与えられているからこそ

この「幻想の自己」の持つ自由意志を用いて、
この「幻想の私」も、この自由意志も幻想であるという、
ことを実感で理解するところまで、努力をするべきなのである、と

若しくは
この幻想の自己とは、行為をすることが出来るということを通じて、
「実は私は行為をしていない」という真実を実感することができるようになるべく
「幻想の自己」が「正しい行為」を行うのである

それこそが

最大限の「正しい努力」をすることであり、
「仏陀の八正道」の実践である。
正しく見る事が出来るように、正しく努力をするのである
正しく見る事が出来るように、そして「真我の眼」と繋がるように、
最大限の「正しい努力」をするのである。

これら
「神我の眼」、そして
「真我の眼」、そして
「魂の眼」、そして
「アジナチャクラの第三の目」、そして
「五感の肉体の眼」

それらが繋がっていない限りは、
即ち「五感の肉体の眼」の眼だけが現在意識として機能している限りは、
私達には、自他が分離している実感があり、
その眼には、二元性の映像が映し出されており
そこに戦争があり、飢餓があり、虐殺があり、善と悪があり、自己と神とが分離していることだろう。

それは常に、「幻想の私の眼」が映像を見せられている状態だろう。
というよりも、映像しか見ることができない状態であろう。

即ち「自分が行為している」という、
この根源からの幻想である二元の「錯覚」に覆われていることだろう。

その錯覚がある限り

対象が見えてしまっている、(対象が私であるとは見えない)

他人が見えてしまっている、(他人が自分であるとは見えない)

私と分離した世界や宇宙が見えてしまっている(自己の中に世界があり、宇宙があると思えない)
                             (私が世界であるという実感がしない)

自分という分離した存在を実感してしまっている(全ての全体がわたしだと実感できない)

そのような眼である限りは
自分が行為しているという感覚とそのような五感である実感が残っている限りは聖なる錯覚からは解放されず

「神が行為している、私は行為していない」という実感は起こらない。正しい正覚、照見はない。
本を読んで知識としているだけでは何の実感も起こっていないのである。


それ故に、その状態の眼では

世界は自分以外の対象として見えており

「世界が自分である」との実感も無く

世界と自分は別々だという感覚がどうしようもなく残っており

その眼には、戦争があり、悲惨があり、善と悪の対立がある。

だから
もし、この「五感の肉体の眼」と「アジナチャクラの第三の目」と「魂の眼」と「真我の眼」が繋がったら

その時、初めてラーマクリシュナやラマナ・マハリシのように

「私は行為していない」「神が行為している」ということが実感されるのであり、
嘘偽りなくそのように言うことが出来る。


但し、私達がそれを実感・直覚できるまでは
この現在のパーソナリティー(個我)と自我であるところの幻想の自己が持っているこの自由意志と、
行為を充分に駆使して

正しく見る事、正しく行う事、正しく思う事、正しく話し、正しく修業し、正しく瞑想し、正しく帰依し、正しく努力する
ことが絶対に肝要である

この「幻想の私」の
正しい自由意志による
正しい行為
正しい努力
正しい帰依
正しい瞑想などの行使が

私達へ
「神が行為しており、私達は行為していない」
「私達は実体がなく、この私とは幻想であり、神だけが存在している」
ということの正覚と実感へと導いていくのである。

それが魂の内奥の眼と繋がっていくことだ

と思われる。