父と子と聖霊の三位一体、についての一考察



父とはハートの真我
子とはハートへと繋がる松果体・第3の目・観照者・現象界への意識の座
聖霊とはこれを支える基盤エネルギー

そして
それはそれぞれが
父であるハートは心臓のちかくに焦点が
子である観照者は頭蓋骨の中、第3の目に焦点が
聖霊とはこれを支えるエネルギーの根源・臍下の一点・丹田の中に焦点が

それぞれ位置していると思われる

そして
それらは三位一体として機能している

ただ、私達の意識が、マインドであるため
即ち
ただ、私達の意識が、二元性での思考、感情、記憶、感覚、体験、経験、認識であるため
即ち
ただ、私達の意識が、「見るもの・主体」が対象を別にあると錯覚して、その主体の対象として、内側に、あるいは外側に、それらの「見られるもの・客体」を見ているため
この二元性のシステムに捉えられ・私達自身が眠らされて、その結果、システムそのものと化している。

私達にやってくる肉体、外界・環境・出来事と内界・内面の出来事、そしてそれらのマインド、
だが
それらを認識している私は「私・観照者」ではない、マインドの一部だと思う。

重複するが
私は行為者ではない。肉体とマインドはやってくる。
そして「行為がおきている」を認識している者は、「私・観照者」ではない、と思う。
その外部からやってきているマインドの一部であると思う。

外部からやってきたマインドは、(この条件付けられた頭脳を通して、その結果)
ゆがめられた認識、知覚で、二元性と分離感を生みだし、そして、自己を作り出し
その自己が、このシステムを見ているというわけである。


「私・観照者」は意識に捉えられない。

何故なら、この意識そのものが
二元性の、分離性の、自と他を分けて認識するマインドであるからである

「私・観照者」は「私は在るもの I AM THAT」であるという


「私・観照者」

それは、このマインドによる意識の対象ではなく
それ自身で存在する

「私は誰かの」問いが始まった場合の
問いの中に開示されるという

「私・観照者」は真我に繋がっている




これを非常にうまく表現したホームページを見つけたので
ここに紹介したい

(以下http://members.jcom.home.ne.jp/rahiri/index.htmから紹介させて頂きました)


宇宙創造主と私たちとの関係



まず、大きな大きな 無限に大きな太陽のようなものをイメージしてみて下さい。

これが宇宙創造主であり、私たちの真我です。

[本当の私(たち)]です。 私達の真の生命の本体です 。。。

全ては1つであり、無限なる存在であり、限りない愛と光そのものです。

そして、その太陽の前に 黒い紙を置いて 太陽を覆い隠したとします。

で、その黒い紙に 小さな穴を たくさん開けたとします。


これが私たちの[個我]であり、[個々]という視点に分かれた[分霊]であります。

黒い覆いの こちら側から見れば、光の点はそれぞれ別の存在に見えますが、でももともとは1つの光源ですよね ・・・ そして光源と光線は本来1つです 。。。。

それぞれの穴から出ている あたかも別々の光に見えるものも、真実は[同じ1つの光]です。

そして 穴に目をつけて覗けば、どの点からも太陽そのものが見えるわけなんですよね。


無数の別々の穴なのですが、どの穴からも 穴に目を近づければ[穴の向こうの全体]が見えるわけなんです 。。。。

ところが通常、私たちは その[穴]が[自分だ]と思い込んでしまっているんですよね 。。。。。

本来 その[穴]は[便宜上のカタチ]に過ぎないものなんです。

古今東西の聖者の教えで『自分とするものなど本当は存在しないのだ』ということなんです。

それぞれの穴として別々に存在しているように見えても、存在の本体は決して穴ではなく、穴から出て来ている(穴の向こう側からの)光そのものなんです 。。。

その光は もともと1つですよね 。。。

これが、『個々に分かれていながらにして、同時に全てである。』 つまり、[一即多]、[多即一]ということなんです。

別々の光(別々の存在)に見えているというのは、あくまでも見かけ上のカタチに過ぎませんし、私たちの存在としての本体は その穴の方ではなく、そこから出て来ている光の方なんですよね。


これが、[我即神也]、[人類即神也]という真実の別の表現による説明なんです 。。。


どうですか
非常にうまく、かつ的確に、表現していると思いませんか
今までで最高の比喩だと思われます
これを書かれた方は素晴らしいです


そして
その穴から
本源の太陽を見て、繋がった人が
覚者と言われている方々ですけど

その一人が
上江洲義秀先生です







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