グルについて

クリシュナムルティーは一見、グルを否定しているかのように見える。
彼自身も良くそのように言っている。
しかし彼の発言の言外に含まれている要旨を読み取らねばならない。
彼の場合は、禅の教師のように強烈で、時には我々を目覚指すために、バッチと殴られることもあるのだ。
それを念頭に擱いて、行間を読み取る必要がある。
グルの否定は
要旨は誰にも頼らず、ただ一人歩めと言うことである。
そのとき理解は深まり、頼ることなく歩み始めたとき、「神は自らを輔くものを助ける」のたとえのように、グルという形で現れるというものである。

実際の話、クリシュナムルティーが彼岸を、非二元性を最も直指している、
その彼のお陰で、私達は非二元性を、非分離の状態をかいま見ることが出来るのだ。

彼は本当のグルだ。
人類のグルだ。
だからこそあれだけグルを、即ち巷に氾濫するグルを否定し続けたのである。
非分離に導かないグルを否定したのである。

かれはグルの中でも厳しい人だ。
一番とは言わないが厳しい、甘くはない、だから彼について行くのが大変なのだ。

実際の話、グルは内部からやってくる。
私のことを私自身より深く、詳しく、日常生活や、行動のことを知っている。
自分が忘れていることや、自分が見落としていることや、自分がしなければならないことなど、私生活や仕事に関しても、私のグルである真我は一番良く知っている。
何故なら内なる存在は計り知れない英知そのものであるからだ。

その英知が私達を内面から導いている。
そして、その真我が
ある時は外面的にグルとして、
またある時は光として現れてくる。
その人のレベルに合わせて。

外面のグルは変わるかもしれない。
しかし内面のグルである真我はいつも変わることなく私達を、細かいところまで観察し、注意している、そして導いてくれる。

それに気づかねばならない。
よほど注意しない限り、その導きと指導があることを見落とすかもしれない。
が、しかし
内面のグルは決して姿を現して、強制したり崇拝を起こさせたりせず、そっと内側から見守っている。

もし私達に対象として、神が現れて指導したり、天使が現れて指導したりしたら、どうなるか
それを分別できないで、私達は直ぐ、それを真実と誤解して崇拝したり、従ったりするだろう。

これは正しい指導の仕方ではないのだ。

決して姿を現して、本人を強制したりせずに、正しい道に進めるように、内側から導くのが内なるグルや真我の方法なのである。
それは即ち、聖なるものの導きは
内側からしか、入口がないということを、
ハートからしか入口がないと言うことを、
真我からしか入口がないことを示している。

私達の真我は本当に、細かいことまで、仕事のことさえも導いて下さっている。
まして、内面の真理のことを導いて下さらないことがあろうか。

その普遍的な真我が上江洲義秀先生を紹介して下さったのだと思う。
いま、何かが始まろうとしている。
それは何なのかは私にもよく分からないが、
私は信頼している内なるグルを。
真我を。
本当の私自身を。
いや、自他を超越した真我を。 





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