私とは最初から何処にもいなかった
このところ友人の何名かに「気づき」(I AM THAT)が生まれています
素晴らしい事です
以下は私の言葉ではなく
或る「友人の言葉」からの引用です
『私達の言葉でいう「気づき」とは
このマトリックス(神の幻術)の霧が晴れていくことで
神の道具であるマインド・心が創りあげていた嘘が消えていくことです
(此処で使っている神という言葉は、対象化できない絶対主体のことで、対象としての
存在ではありません)
自分が行為している、(行為とは根源から自動的に為されており、自分は関与していない)
個別的な個人の私が実在している、
そしてその個別の自分が生きているという嘘が
消滅することです
自分・私という嘘
自分という個人が存在しているという嘘
自分という個人がその特定個人の人生を生きているという嘘
自分という個人が行為しているんだという嘘
自分が時間や空間の何処かに存在しているという嘘
肉体は私だという嘘
幽体や霊体やチャクラやクンダリーニが私だという嘘
他人と自分は一つではないという嘘
マインドや思考や感情や体験や経験や記憶や認識や知覚が私だと言う嘘
個別の霊魂があって転生しているという嘘
(勿論この嘘の中では輪廻転生している個別の霊魂がありますが、それは私ではなく肉体精神機構と合体した記憶です
この個別の霊魂は転生システムの為に神が作った根源的な幻術です)
私は万物と完全に一体であるのに分離しているという嘘
私は世界であるのに、世界と一つではないという嘘
主体と対象が分かれているという嘘
(「見るものは見られるものである」のに主体と客体が一つではないという嘘です)
自分の感覚、自分の知覚、自分の体験だという嘘
(感覚も知覚も体験もただこの特定の脳に起こっているだけです)
自分が生きているという嘘
(この人生は、自分が生きているのではなくて、根源が作ったある特定の脳に映像が投影されているのであり
それはただただ作者である根源の人生であり、特定個人の自分の人生など何処にもありません
自分が個人的に生きているということが嘘です、
根源が「自分が個人的に生きている」という嘘を生み出すために
知覚・感覚が組み込まれているのです、私達とは根源が作った映像に過ぎません、私達は映像であり映画
なのです)
これらの嘘とは思考であり・心そのものであり
根源の幻術です、
根源は心を使って映画を上演しているのです
私と言う個人は単なるその上映されている映画の一部であり、
その映画の中のそこで知覚と記憶と時間と空間が生じているのです
その映画の中で輪廻転生が映写されているのです
そしてその映画は頭脳の中枢を通じて脳内に上映されているわけです
(この場合の脳とは脳の本体であるネットワーク脳であり、物質界の脳はその一部です・・モバイルPCのネットワーク
インターネットと似ています、全ての脳はネットワーク脳の一部です)
この私も、あなたも、宇宙も、世界も、聖なる根源の創りあげた錯覚です、根源の製作した映画の単なる映像です
個別の私もあなたも存在しておらず、根源の投影している映画のなかの単なる映像です、
霊魂といわれている個人的な記憶体もその映像の一部です
この自分という実感、分離している感じは、単なる思考の記憶の実感であり、「私はある」とは違います
この現実に見ている世界とは神の幻術という映画であるのに、
この映画の中の登場人物の私が自分自身のことを「自分が存在している」と思って映画に巻き込まれていること
です
けれど、この映画の中には愛がありません、愛は全くありません、
愛はこの映画の中にはないのです
映画はマインドに依って制作されており、そのマインドとはまさに分離だからです
主体と対象に分割されているのです、その分割の中にどうして愛があるのでしょうか
しかし、真の神とは愛です
(この愛も、神も、人類の思考や心の限界、時空間の二元分離を超えているので、マインドから推測したり
類推したり、想像したり、考えることや信仰したりする事は出来ません、
信仰したり、礼拝できる対象としての神は自分自身という思考なのです、思考の範囲内です想念形態です
そして思考という心は勿論、聖なる存在ではありません)
愛の中には、心は存在していません、愛の中では心は消滅しているのです
愛があるときそこには心は存在しておらず、私とあなたという分離二元はありえません
そして
心の中には愛がありません、けっしてありません、心の中には私とあなたという分離があるからです、
あなたと私と言う分離があるかぎり愛はあり得ません
愛があるとき心はありません、主体も対象もありません全てが一つです
心が働いて、対象認識があり、思考や神秘体験や知覚や経験や記憶があるとき愛はありません
愛があるとき
思考はなく、自他を区別する認識も、知覚もなく、心はありません
愛であるとき
外部に対象として出現するキリストという錯覚はありません、愛は純粋なる主体であり
この純粋主体がキリストであって、純粋主体は対象や客体では決してないからです
純粋主体とは内と外がひとつになっている状態であり、
主体と客体の区別がない状態であり、全ての全てです、全体です、一つです
現象とは分離であり
分離とはマインドであり
マインドとは対象を知覚している私です
その対象を知覚している私は神の使っている心というものです
心とは神の使っている幻術であり、幻想であり嘘であるものであるからです
心は嘘なのです
心・マインドとは神が使っている嘘です、幻術です、マーヤです
この嘘が晴れるのは嘘を創り出している神しか出来ません
嘘である個人を消滅させるのは神しか出来ません
この嘘というマトリックスが晴れるのは
全く私達の努力ではありません
努力とはマトリックスの生み出している個人の記憶が考えていることです
努力という行為は根源によって
根源のDNAプログラムによって
或る特定の映像(個人)に起こるように仕組まれている場合にのみ起こることです
その起こっている特定の映像(個人)は、それを努力とは感じておりません
私達映像はその努力とは全く関係が無いことです
努力は根源によって起こることです
覚醒とは
私達が覚醒するのではなくて
覚醒が私達を粉砕してしまうのです
覚醒・気づきがこの頭脳と繋がった場合はこの頭脳の条件付けを外して、頭脳を変革してしまい
頭脳に繋がっている自我という記憶体を粉砕して消滅させてしまうのです
私達というのは心であり存在していない嘘なのです、映像なのです、記憶なのです
そういうことなので
覚醒がこの脳にやってきたとき(脳の構造に変革が生じたとき)
個人とか、人格とか、霊魂とか言われている「分離した実体である私」は
粉砕されてしまうのです
そして
最初から個人はいなかったと言うことが気づきによって照見されるのです
そしてこの脳の条件付けが解除されて、個人が解消し「気づき」の通路となったとき
この通路という個体を通じて
今度は逆に根源から
自動的にワーキングマインドが作動して、現象界への「働き掛け」が始まるのです
これを一部の人は「神の救済」と呼ぶことでしょう』
-以上「或る友人の言葉」からの引用でした−
(此処で使われている私と言う言葉は
ある時には偽我である肉体精神機構のことを指している事もあり
ある時には自我である進化しているサイコノエティック体のことを指している事もあり
ある時には真の私からの現象界の接点である非個人的な観照者のことを指している事もあり
ある時には真の私である真我からの光であることを指していることがあるので
同じような私と言う言葉で述べている場合でも
その私とはどの私を指しているのかをその都度の文脈で判断するしかないと思います)