何故、良くなろうとするのか
何故、真我実現を求めるのだろうか
それとも、探求しているのではなく、探求していると思っているだけだろうか
探求しているそれとは、真我であるのか、それとも自己の満足であるのか
真我探求と言ってはいるが、それは自己の欲望を満足させるためではないか
この自己(自我)の実現を望んでいるだけなのではないだろうか
何故、真我の実現を求めているのか、
その求めている私とは一体誰だろうか、
誰が求めているのか、求めるのはどうしてなのか
何故真理を、真実を知りたいと思うのか、知らないのでもいいのではないか
何故知りたいのか、知りたいと思っているものは誰か
その動機とは何か、支配欲か、自分が神のように完全になりたいからか
知りたいと思っているものは知っていないものであり、だから知ろうとするのだ
無知なる無明が知ろうとしているのだ
何故、究極を体験し、真我成就するために
自我(エゴ)の死を欲し、復活したいと思うのか、
その死んで復活したいと思うものは、誰か、それこそ、それが自我(エゴ)自身ではないか
最高のものを獲得するために「死」ぬ事を望むことは、取引であり、ビジネスであり、自爆テロのテロリストと同じではないか、自分がより大きな満足を獲得するためには、人の苦しみなど意に介さない邪悪さに何故気がつかないのか
「死」ぬところのものとは覚者によれば、最初から存在していない私であり、真の私とは生まれず、死なず、既に復活し、既に完全で、完成し、今此処に「在る」といわれている。
何故至ろうとするのだろうか、
この到ろうとしている私とは、「既に到っている私」ではないものである。邪悪な自我(エゴ)である。
至っておらず、だからこそ、到ろうとして、色々と努力している私とは、到ることのないもの、即ち思考であり、その記憶ではないか。
それが即ち、自我(エゴ)ではないか、それが至ろうとしている正体なのである。
それでは、その自我(エゴ)とは、至るのことがあるのだろうか、それは、本当は存在していないものだと言われているものであり、
到ることもないのではないか、本来は存在していないのであるから
到ろうとしている私は、それは既に至っている私ではなく、「私は在る」ではないものである。
そして同じように、この私は「〜に到ろう」として努力し続けてきた
何故良くなろう、波動を良くしよう、改善しようと努力しているのか、
良くなろう、波動を良くしよう、改善しようとしているものとは誰なのか
それは、既に良きもの、既に完全なるものではない、全く逆であるものだ
だから良くなろうとし、改善しようとし、波動を良くしようとしているのだ、
その良くなろうとしているものは良きものではない、良きものは既に良きものであり、良くなろうとしているものは良きものの反対のものである。
良くなろうとしていることこそが自我(エゴ)の働であり、それが、この私を最重要視しているものであり自我である。この個人の達成を願うことが、・・・・結局のところ競争を招き、そして・・・・・戦争を引き起こし、お互いが滅亡して、この輪廻世界を維持させているのだ。
改善しようとするものは、既に良きなるものではない。
良くないものであるから、良くなろうとし改善しようとするのだ
波動を良くしようとするものは、波動が良くないものである。
良くなろう、改善しよう、波動を良くしようとするものは、従って「既に良きこと」を否定するものであり、良くないものである。だから〜になろうとするのだ。
これに反して
なろうとせず、到ろうとせずにあるがままに留まることは出来るだろうか
「あるがまま」が「あるがまま」に「在ること」に鍵がある、とは覚者達によって云われてきたことである。
恐れと、憎悪というあるがままを、分離せずに、もし私が恐れであり、憎悪であるなら
そこに、愛と喜びが「生まれる」とは、クリシュナムルティー方々によって云われていることである
此処での鍵は「いま・ここ・あるがまま」である。
従って何かに到ろうとすること、何かになろうとすることは「あるがまま」を否定することである。
「あるがまま」とは最大の神秘であり、自我(エゴ)にとっては理解不能な未知なる謎である。
分離なく、「あるがまま」であるとき、そこに最大の奇跡が起こるのであろう
にもかかわらず
何故、「あるかがまま」を変えようとするのか、
何故、「あるがままで在る」ことから逃れようとするのか
何故、修行しようとするのか、
何故、信仰するのか、
何故、祈るのか、
何故、瞑想するのか、
何故、覚者のもとにいくのか、
何故、本を読むのか、
何故、修行するのか、体験を求めるのか
何故、探求し考えるのか、
何故、真我を求めているのか、
何故、何かが起こる事を期待するのか、
何故、より良きことになることを望むのか
「あるがまま」を改善し、より良くなるために、行って、その結果を実現し、よりよいものを得ようとして、努力し欲しているものは、「よくなろうとしているもの」であり、「既に良きもの」「既に在るもの」ではない。
その「より良くなろう」としているものは、時間であるマインドという思考の塊が起こしているのだ、
それは私と言う個人の分離しているマインドの記憶であり、その記憶が継続しているものであり、それが自我(エゴ)である。
そして、その自我(エゴ)という個人は本当に実在しているのだろうか
その個人である私と言う自我(エゴ)の中身はなんであろうか
それは、分離した記憶の塊であり、思考であり、感情であり、欲望であり、知性であり、感覚であり、知覚であり、体験であり、認識であり、これらの全ては分離しており、葛藤を引き起こすのではないだろうか。
ラマナ・マハリシによれば、この自我(エゴ)という「私は身体だという観念」の根源に到ったとき、最初からその自我(エゴ)は存在していないと言われている。
成長し、進化し、良くなっていく私とは、この個人であり、記憶の継続の人格である私とは、(神の元に帰還する魂とは)、本当の私であるのか、そのような成長している実体が私であるのか・・・・
魂というものがこのように進歩し、競争して成長していくのであろうか・・・・・
それは「私は在る」ではない。それは意識の座にやってきては去る者であるに過ぎないのではないか
それは「巨大なるカラクリ・嘘」ではないだろうか。
魂が成長して輪廻を繰り返して、徐々に真我に近づいていくという、この「〜になる過程プロセス」とは壮大なる虚偽、巨大なる錯覚なのではないか
本当は、既に、いまここに「在る」のではないだろうか
だから、上江洲義秀先生や覚者の云われているように
既に私達は全体であり、個人ではなく、ただ一つであり、個人や人格は存在しておらず
既に完全完璧であると云われるのではないだろうか
「あるがまま」が不完全に見られているのは、あるがままが不完全だからではなく、私たちが不完全であるから、
「あるがまま」がそのようにみえているのではないか
「あるがまま」で在ることから離れて、なろうとするから「あるがまま」が不完全に見えるのではないか
自己の達成を求めることは、自我(エゴ)の働きであり、自我(エゴ)の陥穽に陥ることである
自己の悟りを求めることは、自我(エゴ)の働きであり、自我(エゴ)の陥穽に陥ることである
自己の覚醒を求めることは、自我(エゴ)の働きであり、自我(エゴ)の陥穽に陥ることである
自己が真我の実現を求めることは、自我(エゴ)の働きであり、自我(エゴ)の陥穽に陥ることである
自己が自我(エゴ)の終焉を求めることは、自我(エゴ)の働きであり、自我(エゴ)の陥穽に陥ることである
それらは共に自我(エゴ)の欲望なのであり、本心はこの自我(エゴ)の拡大であり、自我(エゴ)による支配である。
もし私達が自我(エゴ)の虜になっていなければ
自己の達成ではなく、衆生の達成をまず始めに願っているはずだ
自己の悟りではなく、衆生の悟りをまず始めに願っているはずだ
自己の覚醒ではなく、衆生の覚醒をまず始めに願っているはずだ
自己の救いや、真我の実現ではなく、衆生の救いと、衆生の真我実現を願っているはずだ
私たちは分離していない筈だからだ
従って、私たちが瞑想を行うことや、求道をし、探求をしている、この動機と目的が非常に重要である
それが
自分の為に行うことであればそれは如何に崇高な行為であっても、邪悪な自我(エゴ)に虜になっている証拠である