五感は私のものではない
(五感は自我(エゴ)のものではない)



この特定の肉体の五感という知覚を私の知覚だと錯覚している私とは誰か



この身体の視覚を自分が見ているのだと錯覚している私とは誰か

この身体の聴覚を自分が聴いているのだと錯覚している私とは誰か

この各種身体の感覚を自分の感覚だと錯覚している私とは誰か

この身体の味覚や触覚を自分の味覚や触覚だと錯覚している私とは誰か

この特定の頭脳の内部と外部からやってきている思考や欲望や感情や概念を自分が思考し、欲望し、感じ、行為していると錯覚している私とは誰か

この特定の身体の感覚を自分の感覚だと思い込み、自分がこの一定の空間を占めている身体だと信じているこの「個人なる私」とはいったい誰か

この錯覚をしている私、「他人とは分離していると思っている」私とは誰か、それは何か


真の私は錯覚をしていないと言われている
真の私は覚醒している次元の私であると教えられているから、
この錯覚をしている私、他から分離しており、或る特定の身体を持っていると錯覚している私とは一体誰か?

この錯覚している私が思う事、又は願うこと、行っていると考えていることは全てがこの「錯覚している私」の領域・マインド内であり、分離の次元である

なので、その私には、その自我(エゴ)というマインドの次元、分離の次元を超えることは出来ないと思われる。

この錯覚している私が、
「自分が思い」、「自分が願い」、「自分が行っている」のだと信じていても、
実際にはその思い、願い、行うこととは錯覚の私が思い、願い、行っているのではないと言われている。
この頭脳と肉体に外部からやってきているのだ

であるにもかかわらず、その「錯覚している私」は、自分が行為者であり、自分が生きているのだと錯覚しているだけである。

その思いも、その願いも、その行為もこの時間の領域という錯覚次元の中で、映像・マトリックスとして映し出されているだけであると言われている。

それらはこの肉体頭脳にやってきて起きていることであり、

出来事も行為も思考も感情もただ起きているだけであり

錯覚している私(実は単なる記憶)が「自分が思い、願い、行っている、自分が生きている」と錯覚しているだけであるといわれている。

そうしてそれらの行為や欲望に対して、この「錯覚している私」は良くならねばならない、それではいけないのだと葛藤するのだ

ではこの錯覚している私とは誰か、何か、一体誰なのか、この葛藤し矛盾する哀れな自分とは誰か

自我(エゴ・記憶)の考えていること、思っていること、願っていることとはなにか

それは、常に自分が特別であること、良く思われたいこと、キリストの右側に座ること、持続すること、支配すること、進歩すること、満足すること、快楽を得ること(至福を得ること)
などであり

この私なるものがいつの日にか神へと到達するのだと思い願っていることである

では

この分離している自我(エゴ)である私(錯覚している私)に愛があるだろうか、否、全くない

この分離している自我(エゴ)である私(錯覚している私)に正しくあるがままを見る目は在るだろうか、否、全くない

この分離している自我(エゴ)は自他を分離することしかできない、時間と空間しか認識できない、映像しか見れない

であるので、良くなろうとするのだ、努力するのだ

満足を求めているだけなのに、自分は神を求めていると「自己欺瞞」するのだ

この分離した自我(エゴ)である私は時間を経れば、自分を超克出来るとおもっているのだ

しかし自我(エゴ)の思っていることとは

永い輪廻の後に、この自分が実現すると錯覚しているにすぎないこと

この錯覚している私が真実の次元に貫入出来ると錯覚していること

輪廻の最終ステージで最後には実現できると(真我実現出来ると)錯覚していることにすぎない

この錯覚している私は、自分が行為している、自分が欲望している、自分が生命であり自分が生きていると錯覚している

しかし
この肉体という身体も、精妙体も、「錯覚している私のもの」ではないし、この錯覚している私が動かしているのでもない
と覚者がたによっていわれているのだ

またこの肉体や精妙なる身体に起きていることとは「聖なる催眠というドラマ」が演じられている舞台であり、

自我(エゴ)である自分が行為しているのではないといわれている。

ここの時間と空間というマインド次元は根源の演じられている聖なる舞台なのだ、映像なのだ、映画なのだ。

なのに、それを自分が生きている、自分が行為している、自分が欲望していると自我(エゴ)である私は錯覚している

これに対して反論して、この私、錯覚している私は、こう思う、

そんなことをいくら言われても、この様に私は努力しているのだ、物事を為して、自由意志を持って生きており、
自分が思考し、
自分が感じ、
自分が動かしているのだから、これは「私の人生」であり、「私が生きている」のだと

しかし、そうだろうか?
本当にそう思えるのだろうか?
この感覚や知覚や思考や行為は、
自我(エゴ)の錯覚と共に
真の私というスクリーンに(舞台に)起こっている(投影されている又は演じられている)のではないだろうか?

思い、願い、考え、行い、目の前に起きていることは「私が、私の」ではなく、その反対に「私に関わらず」に「起こっていること」に過ぎないのではないか

その思い、願い、考え、行い、出来事は「錯覚している私」にとっても、

真の私にとってもそれは関与していない

それは真の私と言うスクリーンに投影されている出来事に過ぎないと言われている

ここで、改めて行為と行動をはっきりとしたい

クリシュナムルティーは行為と行動とを明確に区別している

行動とは条件付けられているマインドから生じている

しかし行為は思考を超えた次元である自由から生じている

この観点に立てば

行為は私に関わらず起きているのだろうか、それともこの錯覚している私が起こしているのだろうか

行為とは錯覚している私には出来ないし、していない。

とそのようにいわれている

自我(エゴ)のレベルは行為という自由意志を持ったレベル・次元・領域ではなく、行動という「条件付けられたプログラム行動」というマインド・分離レベルである

従って、この行動なるものは条件付けられており、この条件付けとはすなわち厳密なるプログラムであり、
全くもってここには自由はない。結果だからだ。

ただ自由だと思う錯覚が(自分が行為しているのだと言う錯覚が)この行動から派生されてくる

行動は起きている、しかしそれは厳密に封印された頭脳の条件付けの結果であり、それはしかも「自由意志による行為」という錯覚、「行為者」という錯覚を伴っている

行動は行為ではない、私たちにとっては行為は行われることなく、行動という映像だけが結果として上映されている


そう言うわけで「行為とは自由の原因そのものである」、とも言えるわけで、
結果である私たちにとっては、行為とは全く存在せず、条件付けによる行動だけが、延々と上映されているという事だとおもわれる

この上映されている次元感覚が時間という感覚であると言えるだろう、この上映されている映像こそマインドという分離次元、時空間次元である

此処で整理すると、スクリーンには投射された映像(マインド)と、それに対してその映像(マインド)が生み出した自我(エゴ)という観察者・見るもの(錯覚している私)からの反応がある

A:頭脳の条件付けの結果として外部からやってきている感覚、思考、感情、想念、行為、欲望と

B:それに反応して「錯覚している私」(これは実はAというマインドが分離して生み出している、疑似主体である自我(エゴ))が起こす
観察者としての反応、
行為者としての思考
良くなろうとする意志
時間を含んだ観念、
自己を超克しようとする葛藤、努力
動機と目的を持つ分離思考
恐怖、不安、葛藤、矛盾、憎悪、優越感、劣等感、暴力、蓄財などなど


この外部からのマインドAと
これ自体が反応して起こしている、疑似主体である「錯覚している私」の思考Bを

同時に留意し(集中という排除ではない)、ただただ見るワークが此処で求められている

私たちは、この「錯覚している私」という、私を詐称している実体を

クリシュナムルティーのいわれるように「受動的に非難せず、同一化せず、逃避せず、受け入れず、排除せず、集中せず、極度の鋭敏さをもって」注意しなければならない

但し、その際、言葉や思考や雑念や目的や良くなると言う動機も一切持たずに、

目をつぶったまま、眼球を動かさずにただ全体に留意する

そうしたとき、この「錯覚している私」こそが、時間という領域の中で、必死になって努力し、神に近づこうとし、修練を重ねて、良くなろうとしている想念であることが判明してくる、と言われている

この「錯覚している私」こそが、自我を終焉させようとしている自我そのものなのだ

そういうわけで究極に至ろうとして、努力している実体こそがこの「錯覚している私」という観念であることがハッキリとしてくる

そして最終的には、この受動的な凝視の中で、この「錯覚している私」は真の私の中に溶解するといわれている

では誰が究極に到達するのだろうか

それは究極に到達すると思考している「錯覚の私」では無いことは確かだ(この私は既に溶解している)

何故なら、ここにはその私という観念が存在していないからだ、と言われている


では何が起きてくるのか、

それは最初から既に実在していた「真の私」が顕現してくると言われる、
(この虚偽を見ることの中にのみ、真理と愛が生まれていると言われている)


さてここで

この錯覚している私が仮象できたのは真の私が既に、今此処に在ったからだとラマナ・マハリシは言っている

偽我を支えていたのは実は真我であったと言われている

錯覚している私が仮に存在していることが出来たのは、真我という全空間(普遍)、全時間(遍在)、全体・一つなるものがあるからだと覚者たちは言われる(現象は実相があるから仮象できたのである)

この「錯覚した私が存在してない」領域である「気づき」の領域・次元・真の私が顕現するには

「錯覚している私」は存在していないという事の「言葉ではない真の理解」が起こる必要がある

この理解・認知こそが「存在している私」が起こすものである、贋の私が理解・認知するのではない、と思われる

そして、このことが起こるための方法こそが

主体と客体の両方に同時に留意する自己想起であると言われる。

そして、それが完璧に起こるために必要なる沈黙がやってきて

そのワークを引き継ぐといわれている

そのためには超努力が求められている

思考の最高形態である純粋思考が「錯覚している私」の根源まで辿りつく必要があると教えられている

そのとき私(主体)・観察者・見るものは、あなた(客体)・観察されるもの・見られるものとなる

これが「私は誰か」と言われている、アートマビチャーラ(真我探求)といわれるものだと思われる

そう言うわけで

この「錯覚している私」とは誰か、を静寂の中で受動的にワークしよう

この自己留意若しくは自己想起というワークが集中という排除ではなく

完全に開かれたオープンマインドでもって

極度に研ぎ澄まされ鋭敏さで、受動的に凝視しているとき


それが瞑想であり、人生を生きていると言うことに他ならない

と私は信じている



※ここで私と言う言葉を多用しているが大雑把に私は次のように整理したい

@私:真我としての私(「見るものは見られるものである」の意識次元、普遍・全体・絶対愛としての私)

A私:真の私としての私(観照者ともいわれており、真我の現象界の接点でもある、純粋な真実の魂、絶対主体とも言われる)

B私:根源的マインドとしての私(根本無明としての私、第一想念としての私、この私が頭脳を通じて分離した現象を投影している、真我から発生していると言われる、錯覚している根源の私とも言われる)

C私:転生している魂としての私(AがBに触れることによってBに覆われて生じた私、見るものと見られるものに分離に覆われた観察者・疑似主体でもあり、生死を繰り返している。サイコノエティック体とも言われている。通常の所謂自我とはこれを指している。霊魂である。コーザル体は純粋な記録としてAに収納される)

D私:人格としての私(転生している魂が今生で纏った肉体と同一視した結果生まれた記憶の蓄積、頭脳の条件付けの結果生じた記憶の塊。今生で名前を付けられ肉体の頭脳と一緒に成長している記憶体.このわたしこそ通常の私たちの現在のレベルでの現在意識と言われている、「眠り・目覚め・熟睡している」意識である)

E私:ワサナとしての私(Cから切り離されたDであり、再誕するとき魂から分かたれた過去世の人格であり、想念形態でもある。肉体に取り憑き、私として頭脳を使用している)

F私:身体としての私(肉体若しくは他の身体独自の身体意識であり、それ独自のある程度の意識を持っている)




















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