記憶の本性
「あるがまま」を聖者方は常に説いている
そして「あるがまま」に留まることの、「あるがまま」で在る事の重要性を説かれている
また「あるがまま」を「あるがまま」にみることの緊急性を言われている
では「あるがまま」に在るとは? 「あるがまま」にみることとは?・・・・
この個人である私は「あるがまま」にいるのだろうか?
「あるがまま」であるのだろうか?
私と言う個人であり、肉体を自分だと信じているものであるこのわたしは、「あるがまま」を受け入れているのであろうか
そして「あるがままをあるがままに見ている」のだろうか?
私達、頭脳の条件付けの結果であり記憶にしか過ぎない、人格や個人にとって
現在意識や潜在意識や無意識や社会意識や集合意識や、さらにその集合意識の集まっている意識にとっても
それらが記憶である以上は
「あるがまま」ではないのではないか、その意識自体が本性からして「あるがまま」ではなくて
「あるがまま」から逃げようとし、否定しようとしているのではないか・・これは実は意識ではなくて
記憶なのだ、記憶の当然の反応なのではないか・・
記憶である私は常に過去に生きている、そして必ず未来を心配する、記憶はあるがままにいることができない
のではないだろうか
記憶である私は、常に時間の中にだけ生きている、そして過去を思い出し、苦しみ、藻掻き
その記憶から未来を思い計り、心配し、悩む、だから時間に支配されているという
あるがままにいることがなく、留まることなく、目を背けて常にあるがままから逃避しようとしている・・それが記憶だと
過去現在未来の中に生きて常に時間に束縛されている記憶の私こそ、あるがままを否定しているものだ
記憶である私は「ここに在る」ことができない、安らいで静寂でいることがない、常に何処かに到ろうとして、何かになろうとし
ているのではないだろうか、時間の結果であると
目的、目標、理想、理念を抱き、それに向かって努力しているので、必ず「あるがままのここ」を否定し、非難し、もっと
もっと、という葛藤に常にいつも束縛されている、
到ろうとし、自分の想像している「良きこと」になろうとすることの『葛藤』こそが記憶の本性だからではないか
「ここに在る」ことができないものこそが、この記憶である私、即ちわたしではないものだと
記憶である私は常にここにいることができない、じっとして、何もせずにここに留まることが出来ないで、つねに動き回っている
そして記憶なので行為はしておらず、思考もしていないのに、頭脳にやってきている思考とその行為を自分が思考して
自分が行為していると信じ思い込み、自分が生きているのだと錯覚するのだが、行為し、思考し、生きているのはこの
肉体を維持し、思考し、頭脳を条件付けている根源であって、決して記憶ではない、この記憶が自分は身体だと思っているだ
けでありそのように信じているだけなのだと教えられている
聖者方によって教えられているように、「あるがまま」にだけ、ダイヤモンドがあり、「あるがまま」にのみ解放に到る鍵があると言われて
いるのに、それを何処か他にあると思って、ここからあそこへと彼方を探し回っているのではないか
猿のように「あるがまま」に留まることの出来ない者が記憶である私である
静かにして、全てを受容して、何もせずに、何処にも行かずに黙って安らいでいることができないのが記憶の特徴ではないか
記憶である私は、あるがままを決して受け入れないし、受け入れることをしない、常になろう、良くなろう、進歩しよう、到ろう
理想に近づこう、悟りに到ろう、真の私と合体しよう、真我を実現しようとしている、起こっている、このあるがままを避けて、
逃げて、このやってきているもの、即ち記憶によって恐怖と絶望と虚無と捉えられているものを非難したり、
決してあるがままのものを受け入れようともせず、見ようともせず、じっと静止することが出来ない者が
この記憶であるのではないか
あるがまま・・・ あるがまま・・・
あるがままである「あるがまま」を決して受容せず、常に神を求め、神になろうとし、自己実現しようとして努力し
修行し、常に良くなろうとしてあるがままを憎悪している者、自分を憎悪している者、それ故に奥では神を憎悪している者
これが記憶ではないか、これが現在意識、潜在意識、集合意識の私ではないか
記憶はあるがままを見ようとしないし、見る事も出来ないし、(見るための目がないからだ)
受け入れることもなく、(受け入れているのは常に虚像であり、幻だけだ、時間だけだ)
あるがままから常に遠ざかろうとしている、
あるがままから逃避し、非難し、軽蔑しあるがままを変えようとしている・・もっとより良いもの?へと・・
記憶はこのあるがままを憎悪し、非難し、拒否し、逃げようとしている、これが記憶である私の実相である
私と言う記憶はあるがままを憎んでいるのであって、あるがままを凝視しているのでも、そこにいるのでも
受け入れているのでもない
この記憶である私とは「あるがまま」ではない、「あるがまま」とはまったく正反対のものであり
「あるがまま」を否定しようとしているものなのだ
あるがままこそが至高なる実在であると教えられているのに、この至高の実在を受け入れず、拒否している者こそ
記憶でありマインドでありこの現在意識の私なのだ
このあるがままが至高の実在に見えないのは、見ている私が記憶であるから見えないのであり、逃げているからだと
だからこそ私達はこの「あるがまま」を否定しようせずに
あるがままのものを、あるがままにあるがままに受容し
動くことなく凝視するべきなのではないかと思う
クリシュナムルティーの言われるようにあるがままをあるがままに思考の動きなくただみることではないだろうか
ただただ見ることが、即ち全ての注意を紛らわさずに目をカット見開いて(集中ではなくて注意だと)
何も判断せず、何も思考せず、何も行わず、何も願わずただただ見ることが緊急事のことだと
今 ここ あるがまま このあるがままがいかなるものかは記憶には分からない、この現在意識の私と言う記憶は思考で
あって決してあるがままではないからではないだろうか、
思考の記憶ではあるがままは分からないが、「記憶では分からないのだ」と言うことならば分かるのではないか
記憶に分かることは、記憶である思考の私はつねにあるがままを否定し、なろうとし到ろうと努力し、実現しようとしている事
のなかで、あるがままから常に逃げようとしていることではないだろうか
記憶である私とはいままでもそうだったし、そしてこれからも時間であるので、葛藤と、闘いと、戦争の中にいる、これである
そして、これが外部に投影されて私達はテロと暴力と対立の世界を現出させているわけだろう
あるがまま・・・あるがまま・・・あるがまま・・・
あるがままをあるがままに見る事・・・・
これこそがラマナ・マハリシ達が教えられていることである
あるがままであり、あるがままで在ることだと
記憶ではない私とはこの既に在る「あるがままの私」であり、今 ここ あるがままで在るものが本当の私でなのであると・・・・
この記憶であり、常に今 ここ あるがままを否定し、非難し、逃避している私とは決して私ではないのであると・・・・
教えられているではないか