人類は神を求めたことがあったのか




クリシュナムルティーは言います
人類は、現在に至るまで神を求めたことがあったのであろうかと

まず、その求めている私とは誰だろう
神を求めている私とは、一体なにかを、その前に知る必要があると


その求めている私とは、既知であるもの、即ち心であり、マインドであるところの記憶である

その中身は、頭脳の条件付けを通じ、またマインドそのものという二重の条件付でもって、知覚され、認識され、体験され、経験している記憶である

その記憶の中身であるもの(現在のこの人格や肉体と同一視している個人)は、
条件付けに正確に従い、制縛され
常に、見る者と見られるもの、即ち主体と客体という、内部と外部とに、
自分と自分以外のものという分離の意識(マインド)のうえに成り立っている

というのもこのマインドという意識が頭脳経由に限定されたそのルートでしか認識することができず
その頭脳が多くの条件付けと、マインドの時間と二元性と分離性という意識によって限定されているために
二重に条件付けられており

最初から最後まで、自と他を分離し、主体と客体を分離し
その結果
知覚と言うこと、認識と言うこと、体験と言うことの全てが、このマインドという二元性、分離性の枠内にあり

それ以外の未知なるものは知ることもできず、見ることも出来ず、
体験することも出来ず、知覚することも出来ず、推測することも出来ず、
想像することも出来ないというのが条件付けられた私たちの現状である


この私達の心というマインドの中身は
この既知なるものという、時間と二元性と分離性であり、
常に「〜になる」という時間に呪縛されている人類共通のものであり、そのマインドが
多くの地域や過去の歴史の時間の中で、人類が
神を求めてきた、と、そのように思っているのであるが
クリシュナムルティーは神を求めているのではない
と言われる

それは
今まで人類が求めてきた神なるものの中身とは、一体何なのかを直視することでハッキリとしてくる

知ることも出来ず、見ることも出来ず、体験することも出来ず、知覚することも出来ず、推測することも出来ず、想像することも出来ない、その未知なるものであるものを
既知なるこの条件付けられた記憶であり、時間であるところのマインドそのものが
(知ることの出来ない)未知なるものを
「求める」という事自体が果たして可能であろうか

「求める」ためには、その求める当体の意識が、「求められるものの実体」がなになのかを既に把握していなくてはいけない
しかし
未知なるもの、想像することすら出来ないものを、
(その「見るものは見られるものである」であるところの(非二元性なる未知なる)ものを)
求めることが出来るのだろうか

従って

人類は神を求めてきたのではない

なぜなら神を知らないからだ

だから求めることが出来ないのだ

求めているその「求める」ということの起こる、その主体そのものが
分離であり記憶であることろの、「〜になる」という時間から出来ている以上は

その求めることは、必ず客体としての外部であること、即ち対象になってしまう、
それは自分の内面でも外部世界でも同じである

しかるに、神とは非対象であり、見るものと見られるもの分離が完全に終焉したときにすでに、最初からあったものであり
対象ではなく、外部と内部が分離していないことの中に、時間を超えて「在る」といわれている
「わたし」として、時間を超越し、あらゆる空間に遍満している状態の中に、
全てが全てであり、全てが我として「在る」のなかに在るといわれているもの
これが、実在
この「在る」という状態そのものであると言われている、
それが「I AM THAT I AM 」たる神である、「真の私」である

だから神を知るとは自分が神であると言うこと以外にはない

神をもし客体たる対象として、自分以外にあるものとして認識するのなら、それは神ではない

神は「見るものは見られるものである」の非二元性であるので、すべてが一体・一命であるとき、
そのとき、神以外には存在するものはなく、
「わたし」以外に、もし神というものがあると思うなら
それはマインドの投影したものであり、その神は神ではない、
自他の分離からなる分離の中で対象として、自分以外のものと認識される神は神ではない、
なぜなら神は絶対主体たる自分以外の存在ではないからである

従って、人類の心はこのマインドの時間という「〜なる」という欲望の中に発生したものである以上、
マインドである既知なるものによって、未知なる神を知ることは出来ず、
従って求めることが出来ないのだ、

なぜなら求めるためには、(希求するためには)それを知っていなければならないからである
既知のものには未知のものを、求めることは出来ない
既知であるものとは「〜になる」事であり、常に過去から未来へとその時間の枠内の動きであるからである

なので人類の神を求めている事とは
本当には単に
この私の暮らしがもっと安全になること、そして安定すること
この私が悲しみや苦しみから解放され、葛藤を終わらすことができること
この私が愛され、愛することの出来る存在になり、よりよくなること
この私の願いを叶えて貰うこと、即ち自分の願望が成就されること
この私が存続し続け、普遍で、時間を超えた存在になると言うこと
などなどであり

いずれにしても
人類が神を求めると言うことは
正確には
マインドである記憶が、その知っている範囲内で、既知なるマインドというものの
それの存続と、安全とを求め、かつそのマインド自体が「〜になる」という過去と未来という時間内に於いて
それを求めていることであって
(それ自体の記憶であるマインドが単に自分の想像できる枠内で想像する中でのことのでしかなく)
それを人類が間違って神を求めていると思っているだけにすぎない

だから、決してこの記憶であるマインドの個人には
未知なるものであり、非分離性である全体性
内部が外部であり、外部は内部であるもの
非時間であり過去や将来ではないもの、
今ここに在り
普遍であり、
愛そのものであるものを
求めるということ自体が出来ないことなのだ

なぜなら求めると言うことは、既に自分にとって既知であることをその前提にしており
未知なるものである神は決して既知なるものではないのであるから

本当は人類が神を求めてはいないというのが、真実ではないのか
単に自己の欲望や願望の満足を求めているのだ

既知なるものであるもの、時間という「〜になる」という過程が終焉し
既知なるものが既知なるものによって完全に正見されたとき
マインドがマインドによって正見されたとき

そこに未知なるものであり
「見るものは見られるものである」であるところの「気づき」という分割できない神聖なる存在が

求めてもいないのに
私自身として
全ての中に、すべてとして時間を超えて「在る」
と覚者の方々は言われております

それは求めると言うことの中にではなく
「在る」ということのなかに
すでに求める前から時間を超えて永遠に在るということではないのか

なので

私達にとっては、未知なる神を求めていると錯覚するのではなく
求めているその自分とは何なのかを、
極度にとぎすまされた受動的凝視の中で
一体化もせず、拒否もせず、受け入れもせずに、思考を使わず、時間を使わず、未来ではなく、今ここに
「見るものは見られるものである」なかに、もてるすべてのマインドの能力を使って

私と分離していないものであるところの
この恐怖などを「あるがままをあるがままに直視」している
この凝視の中に

その中に
計り知れない
沈黙が訪れ
その沈黙それ自体が
本来の私自身である分割できない「気づき」という非分離性、非二元性である全体なる意識を開示し

はじめからそこにあったことに気がつくでしょうと

クリシュナムルティーはじめ多くの覚者の方々は指摘されておられます









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