完全完璧、問題はない
Cさん :こんにちは、お久しぶりです、二人の会話に参加させて頂いて良いですか
A子さん:いやぁ~元気ですか、お久しぶりです。良くいらしてくださいましたどうぞ!
Bさん :どうぞどうぞ、あのとき以来ですね
Cさん ;実は今日はね、あの、「完全完璧、なにも問題はない」という事について、話したいんだけど、どうかしらね
A子さん:というと?
Cさん :このホームページでも紹介している、米国のノリオさんもそうだけど、覚醒した方々は揃って
「全ては完全完璧でなにも問題はない」・・と言っているよね
しかし現実には、私達の回りには絶えず、戦争とテロと餓えと殺戮、暴力と、闘争と、悲惨が満ちているよね
これが覚者がたの言うように、私達は結果であって、なにも行為していないといっても、この自動人形であり
映像である「自我」にとってはやはり「自分が実際に体験している」という感覚と知覚があり、意識があり
それを知覚し自覚している以上は、そこには大変な苦しみと悲しみがあるわけで、それにもかかわらず
時間のない領域に於いては全く完全完璧と言っても、現象界の現実を見ると非常に納得がいかないのね
このマインドの領域は確かに映像であり、幻であるとしても、この映像の中で苦しんでいる人をみると、根源は
なんでこのような映像を映し出しているんだろうか?、なんでこの知覚と実際の肉体を持った自動人形の私
として苦しみと悲しみの中にのたうち回っている映像を映しだしているんだろうか?
という疑問なんだ。僕の云うことが分かってももらえるかなぁ~
A子さん:勿論分かるわよ、目を背けない限りは、この実際の時間の中の世界ではこのような苦しみがあり
このような悲しみが世界中で続いている・・・。創造者は何んで宇宙と世界という現象世界をこのような悲しみと
苦しみに溢れて作りだしたのだろうか・・・と思うのは至極当然だし、その当然の論理の帰着として、この世界に
神はいないし、神がこの世界の創造者ではないという論理も当然だと思えるわね
そう考えるのはこの現実の飢餓と不平等と暴力を見るならば常識人である限りはやむを得ないかもしれないわ
Bさん :だからグルジェフはこのような僕たちの歩んでいる「覚醒の道」を神に背く道と言ったんだよ
私たちは眠って目が覚めないように造られているのにもかかわらず、目が覚めて覚醒することは
神は眠らせようとしているにもかかわらず覚醒することであり、これは神に背く道だという訳だが・・
しかしこれは正確には神に背く道ではないと僕は思うんだ
後で紹介したいがマクドナルドベインは現象を映し出しているこの原因というものと実在とを区別しているんだ
この神に背く道と言っているのはマインドの時間の領域にいる意識だと思うのだよ
マインドの領域にいる意識的な「集合の意識存在」にとっての、「彼ら」はそのように思うことだろうよね、
だって、マインドの領域内ではどんなに時間の中を動いても、どんなに空間を移動しても、思考という
観る者と観られるもの、主体と客体、私と対象という二元対立の分離が続いているんだから、この領域内
では、この分離自体が苦しみであり悲しみだよね
だからその様な「意識的存在」がそのように思ったとしても、彼らがマインドである限り、そう思うだろうよ
しかし、僕には分からないけど『思考が存在していない「今ここ」』というあるがままという実在には
主体と客体の分離もなく、観る者と観られるものの分離もなく、時間もなく、私と対象の分離がなく
ただひとつなるものが在るのであるから、そこは完全完璧であり、なにも問題はないと言うのだろうねきっと
Cさん :しかし、そうはいっても、実際にこの物質界や幽界や霊界を含めて現象という分離世界にはこのような
悲惨と悲しみが、そして苦痛が続いていているような世界をどうして、根源者は投影しているのだろうか?
という疑問は残るね
A子さん:そうねCさんの云うことは古今からづっと云われてきた根本のことで、それがづっと求道者の心を
悩まし続けてきた事よね、ニサルガダッタ・マハラジの「I AM THAT」の中にも、それのことでの
やりとりが詳しく書かれているし、それに対しての同様な質問の中でニサルガダッタ・マハラジは
あくまで譲らない態度で完全完璧だと言い続けているわね
Bさん :そうそうなんだよ、その点でU先生は講話の中で「全ては完全完璧だ、神以外に何か見えるとしたら
それは盲だ」と言っているよね
僕たち盲が、目が開いていない僕たちが目を瞑っており、目を閉じているから完全完璧であることが見
えていないんだというんだよ、彼は・・
マインドの次元領域、この思考の領域から見る限りは、この映像が、このマトリックスが映し出されており
そこに巻き込まれて飢餓とテロと暴力しか見えないのかもしれないね、U先生がいうように僕たちは
肉眼や霊眼しかない盲だからね
マインドであり記憶が作動している限りは「気づきという目」を覆ってしまい、あるがままを見る事が出来ない
「見るものは見られるものである」であることを見る事が出来ないと云うことだよね
Cさん :そこをこのマインドの集合的な意識的存在達は誤って神に背く道などというわけだ
Bさん :そのへんは僕にはよく分からないよ・・・
A子さん:ともかく、思考が停止し、自我が終焉しないかぎりは悲しみという映像は投影され続けている
輪廻は廻され続けていると言う訳よね、知識や言葉で理解しようとすることが「思考である時間」が行って
いることよ、究極や真実を考えたり、模索したり、思索したりしていることがマインドが起こしている業であり
間違ったことであり、実在から離れて行くことよね
Bさん :この辺の事情についてとても良く説明している本があるので紹介したいな
マクドナルドベインの「キリストのヨーガ」が手許にあるので読みますよ
以下はマクドナルドベインが体験したことを綴っている。少し長いが此処に紹介します
「今や心が時間の、記憶の、観念の単なる産物に過ぎないことを心自体が悟らねばならないことが分かった。
意識的、無意識的、高・低いずれであろうと、記憶は記憶の彼方にあるところものを啓示することは出来
なかったのである。
心すなわちわたしは、決して真理を啓示することは出来なかったのである。
真理について、考えることをやめることによってのみ、わたしは真理を経験することが出来るのだった。
このことが分かったとき、心は静かになった。
それは強いられた静けさではなく、解脱から来る静けさであった。
わたしは最早、何かに成ろうとは望まなかった、「成る」という欲望は既に消えていた。
心が心自身を変性させて真理になるなどということなど出来るはずがなかったのである。
また、心が真理を発見することもできるはずはなかったのである。
真理を開示するには、心は静かでなければならない。
そうして初めて時間に属さない静けさ、強いられない、あるいは強制されない静けさ、より来たるところの
静けさがあったのである。
心が饒舌を止めたとき、その静けさの中に「実在するもの」「知られざるもの」が現前したのである。
これが、創造性であったのだ。わたしにはもはや、結果を求める欲望はなくなった。
全ての行動はやみ、全ての思考は止んだ、これが最高の形態の思考だったのだ。
何故なら、今やそこには創造性があったからである。
わたしの思想・想念はもはや記憶や、過去や、わたしが真実あるいは真実ではないと思っていたことの
表現ではなくなった。わたしは、物事をあるがままに見て、物事にとらわれることはもはやなくなった。
知的働きは全て止まった。今や、思考の結果としての思想、想念と、思考するものとの別もなく、経験と
経験するものとの別もなかった、今や記憶による、時間による経験はなくなった、あるのはただ、経験
しつつある状態だけであって、その中では時間は既に消滅している。
昨日、今日、明日は完全に止まってしまっていた。
時間は心の中以外には実は存在していなかったのである。もはや、時間の囚われになっていない心には
時間はない。時間のないところには、始めなく終わりなく、「因」なく、それゆえに「果」なき永遠であったの
である。
「因」なきところのものこそが実在するものなのである。父なる神はご自身の証文を履行したもう。
ここに創造性ー完全性があったのだ。
今や、わたしは真理が「即時」であることを悟った。
時間の産物である心は既に完全にとまっていた。一切の想念・思想が時間に属するものであること、
あらゆる人間の問題は、時間の中ではなく、今の今、解決しうるものである。
何故ならば、実在には問題などありはしないからであるー
このことを私は即座に悟った。人間だけが自分で自分の問題を造りだしていたのだ。この事実を
知ることが解決への道だったのだ。
人間のあらゆる問題は、記憶の、体験の、時間の結果であること、それは時間自身のレベルでは
解決されうるものではないことを私は悟ることが出来た。
それらの問題が即座に解決するのは、記憶が止んだ時だったのだ。そのような問題など
「時間なきもの」の中には存在しなかったのだ。時間の中にのみそれは存在していたのだ。
しかも、時間は心の中以外には存在せず、ゆえに問題は心の中に存在していたのだ。
神が現前し、爾余のものが一切なくなったとき、人間のあらゆる問題は、愛と理解、すなわち神の
中で氷解するのだ。
以上のことを私が悟ったとき、創造性が現前して、「すべて善し」なることをわたしは知った。
無限が唯一の実在であったのである。私は単なる一個の自動人形ではなく、いたるところに存在し、
始めなく従って終わりなき活発々たる(生き生きとした)創造原理だったのだ。
今や私は自我を知ることが何を意味するかが分かった。自我は実在の中には存在しなかったのだ。
このことを知ったとき、実在が解放であることを知った。
故に、「今」こそが唯一の時間である。本来、明日もなく昨日もまたないーこれらのものが現在を曇らせると
「今」は実現しない。
故に瞑想は一心集中の手段ではないのである。一心集中は萎縮であり、排除であり、限定である。
瞑想とは解脱、時間のよりの解脱なのである。
今や、わたしは実在するのはただひとつ、すなわち久遠の今のみであることを知った。
二元も、対立も、欲望も、過去も未来もなかったのである。それはすべて、心に属するものであり
それが(彼と我とは別の存在だとする)分離の中で生きてきたわたしだったのだ。
父なる神とわたしとはひとつだったのだ。キリストのヨーガこそが唯一の真のヨーガだったのだ。
今や「わたし」も「わたしのもの」も融け去って消えた。完全なる全体が実在だったのだ。
滴が大海となったのだ。イエス大師が、「 父と我とはひとつなり」と語りたもうた御旨が今や分明となった。
それは一個の観念ではなく、リアリティー実在であったのだ。思考は決して真実なるものを創造する
ことは出来ない。なぜならば、思考はもともと時間に属するものだからである。
また思考は「時間なきもの」を啓示する事も出来なかったのだ。そうだ、そうだ、そうだったのだ。
記憶の結果である思考が止んだ時「続くもの」が終わったとき、久遠なるものは現前するのだった。
造り出されたものではないこの沈黙の中に実在があったのだ。記憶から解放され、時間から解放され
瞬時から瞬時に「久遠常住の今」があったのだ。
高我もなく、低我もない。それらもまた分割であり、単なる心の造りだしたものであることを、今やわたしは
悟った。この「我」なるものは、例え如何なるレベルのものであれ、単にひとつの観念でしかなかったのだ。
何故ならば、時間の観念は一個の幻影でしかなかったからだ。
Cさん・A子さん:それでは仕事に行くのでこの辺で・・・
Bさん :ではまたね