悟りとは


悟りとは何か


ジャッジメントなしに
あるがままをあるがままに分離なく観察すること

ニサルガダッタ・マハラジ
「マインドを見守るにつれて
あなたは見守る人としてのあなた自身を発見する」

「あなたが動じることなく、ただ見守っているとき
あなたは見守る人の背後にある光りとしての
あなた自身を見いだすだろう」

ガンガジ
「あなたは他人の中に同じ『己』を見いだすことだろう」

さて悟りとは「悟り」なのであって、私が悟るとか「XYという誰かの個人」が悟るとかいうことではないのではないか?

悟るというと、私達「悟っていない者」は、すぐに誰が「悟った」のか?と思うけど
この誰が「悟った」かと言うことは「悟った者」という個人主体ということを前提にしているのだ
悟りとはその悟ったという「悟り」のなかには個人や私が全く存在していないことを指しているのであるから
また、悟りとはそもそも最初から悟るべき私と言う個人などがいなかったことを再確認することであるから
「悟り」であるからには、誰彼が悟ったとか悟らないとか言うことなのではなくて
悟ったとは、その「悟り」というものが誰彼の個体を通じて出現したと言うことなのだ
と、そのようにいったほうがより正確であるとおもう

だから「悟り」とは私や貴方が悟るのではないと言うことだ

全く非個人である悟りが或る個人や主体を突き破ってその個人に出現したと言うことだと思う
そしてその前提条件として、その個体を覆っている、ある記憶(個人)がその個体から消滅したと言うことではないか
だからある個体から、その個体に関係している記憶(個人)が絶滅していることが悟りの前提だと言うことではないか

これは真我実現にしても全く同じ事で、真我実現とは誰彼が真我に到るとか、私や貴方が真我になるということではない
とおもうのだ
記憶である個人というものが真我に到達し、真我となるということではなくて、
真我が、ある個体という「場」に出現したのである
誰彼という記憶(個人)が努力して真我に到ったり、真我を実現したのではない、記憶という個人が真我になったのではない
真我がやってきたのだ、真我が誕生したのだ

そういうわけで私や貴方という「記憶」が努力をした成果として、その努力の結果、真我を実現したということなのではない

個人の努力や精進によって、その個人が真我を実現したのではないのだ
真我が或る個体に作用を及ぼして真我が花開いたのであって、それはその記憶である個人の努力によってが花開いたのではない
その個人が分離なき自己観察を続けている中に或る出来事が起こって、その恩寵によって、その恩寵がもたらした、やってきた「沈黙」
によってその個人が消滅し、絶滅した結果、「いまとここ」に最初からあったという真我が実現したのだと
ここにはその個人の行為も個人の努力も全く介在していない、恩寵だけがあったのだ

悟りや真我実現や、究極の体験とは、それを体験する主体を含んでいないのだと、言われている
すなわち其れを称して「天心は無我」であると言われている
悟りとは私がいない状態なのだ
悟りとは私が最初から存在していなかったと言うことの確証なのだ、再確認なのだと思う
マインドが私は存在しているのだと嘘をついていたのだ
個人とはマインドの記憶だったのだ

勿論かく言う私久保栄治は悟っていないし、その個人である記憶が消滅したわけでもなく
これは、あくまでわたしの個人的な或る考えのひとつであることを明記しておかねばならない

さてそういうわけで、或る個人が悟りを開くとか、真我に到達するとか、究極の体験や経験したと言うこと自体が、
自己矛盾していることなのだ
悟りが悟りを開いている、真我が真我を実現している、究極そのものが究極の体験しているのであり
その悟りという「今此処」には自我(エゴ)がない状態であり、「私個人・記憶」は絶滅したのだと

そこはに私だ、というところの他と対立し、分離している個人がいない状態なのだと思う
どこをさがしても、全体と分離しているものが見あたらないのである、全てが全体とひとつなのである
そういう状態なのだろう

従って或る主体が悟りを開いたり、真我に到達したり、究極の実在を体験したりしたというのはおかしな矛盾したことであり
その個人が悟りを開いたなどということ自体が
その主体、所謂虚偽(見る者と見られるものが分離した状態で存在していると思っていること)
の範疇に有ることであるだからだ

私はいなかった
分離しているものなど何処にもなかった
だから悟ろうとしたり、真我実現しようとしたりしていることを笑ってしまうのだと悟った方は言われている
既に悟っており、真我であるものがどうして実現しようとしたりすることがあるのだろうか
その実現しようとしている私も、分離することの出来ない全体の一部であったのだと

これがここに起きたのだ
正確には起きているのだと教えられている
それは「今と此処に」だと言われている

大地から生まれた花の種子が段々と生長し
長い年月をかけて蕾と成り
そうして、見事に開花し
やがて枯れ果て、萎んで落果し、そして地に落ち
その花を咲かせた大地へと再び戻るように
死の中にこそ生はある
死こそが愛であるとクリシュナムルティーは言われる

同じように
私達、真我から生じた「私という観念」であるものは
肉体の頭脳を通じてマインドに触れたのだ
そしてマインドの記憶を自己と同一視して、その記憶を自分のものとしたのだ、
そこに投影されている身体や思考の経験を自分が経験していると思い込み、自分の記憶になったのだ、それが自我だ

自我である想念は真我から生まれ
自我として成長し、色々と経験を重ねて
やがては自我が自我をジャッジメントなにし、非難なしに観察することを学び始め
その非難なしの観察が自我を開花させるのだ
自己観察や自己想起を通じて、くまなく自我が顕わになることを通じて、自我は開花し、そしてその自我が段々と枯れ果て
そして
脱落していく

自らが始めから存在していなかったこと
始めから自己は存在しておらず、自分だと言っているのは思考だけ、マインドだけであったことを了解するのだ

存在していたのは全体だけであったと
死である愛であったと
(注:この死とは自我の死であって肉体の死とは全く関係ありません、この死とは対象と思考が脱落することですと)




















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