観察から観照へのプロセス


観察から観照へのプロセスとはどのようなものであろうか?

色んな方法やシステムや流派があることであろうが
私は永年、独学でクリシュナムルティーを勉強してきた関係上
次のように推測するのだが


@不観察状態

   (思考や感情や想念に巻き込まれている状態、所謂、自己[すなわち思考を]観察していない状態)

   ・この不観察状態のことを通常では「自己観察」「自我観察」と言っていることが非常に多く、観察しているつもりになっ
    ているのであるが、観察をしているのではなく、思考や感情や出来事に巻き込まれており、その意識状態は自己にだけ
    関心のある自我に閉塞された不意識状態に陥っている

   ・この状態では自己を観察しているのではなく、
    単に自分が観察の対象である観察される感情や想念や思考と同一化しているのであって、それに振り回されており
    たとえて言うなれば
    恐れている自分が、恐れている自分を見て、「恐れている自分を観察している」と思い込み想像している状態であり
    それは、実は自分が恐れであるのに、恐れを見ている私と、見られている恐れに分割してしまっているのである

   ・観察しているのではなくて、「起きていることに巻き込まれている状態」に対して条件付けから反応して
    いるだけである

   ・自己を観察しているつもりであっても、観察し、されている自己に巻き込まれて同一化してしまっている状態であり、
    その観察されている自己の状態とは、
    観察している自己の状態であって、その似非観察状態のなかでは観察者である自我が増大してしまう危険性がある
    もし、その観察の対象が恐怖であり、対象として恐怖を見ているのであるのなら、その恐怖を増大させてしまう
    結果となる、
    なぜなら恐怖に対して集中することによってその恐怖という想念をさらに強大なものにしてしまうからである
    
   ・この状態ではただ単に観察しているつもりであり、観察はしていないからである、実際には観察から遠ざかっている

   ・自己観察をしていないのに、またはできないのに、自己観察をしているつもりになっている状態

    それは丁度、ラマナの教えによって「行為は起きている、自我は存在していない」というDの状態であるところの言明
    超観照状態(非二元の意識状態)の最高度の言明を、この現在の段階のレベルの自分に当て嵌めてしまって

    現在の実存状態はこの自我意識の私が、しっかりと欲望や感情や思考に囚われて自我で満載であるのにも関わらず
    また、肉体の行為感覚があり、自分が行為しているという実感がしっかりと残っているレベルであるにも関わらず、
    その低レベルの自分が
    自分が行為していることを体感し、現在の実存意識レベルとはエゴに覆われている自分・自我であるにもかかわらず
    「私は行為していない」「自我は存在していない」と言い張ってしまっている・・・・そして、この矛盾に全く気がついてい
    ないほど低次な非自己観察状態を不観察状態と呼ぶ


A観察状態・自己観察

   ・観察している自分が思考や感情や想念に巻き込まれており、その思考の限定されている「思考の知覚」の状態で
    あるのに自己を観察しているのだ・・・・と、そのように思い込んでいるだけであるということを見ている状態

   ・その様な思考であるところの限定されている自分によって、観察されている思考や感情や想念や自我を非難したり、
    観察していると称してその対象である思考や感情や想念に自我からの意識を集中したりして、それらに巻き込まれ
    はたまたそれらを否定したり、逃避したり、善悪という基準を持ち込んでそれらを評価し、判断したりしていては
    決して自己観察はしていないのであるという・・・その、それは自己観察ではないと言うことを見ている状態

   ・その似非自己観察とはこの自我の状態「マインドと思考の状態」それそのものであるということを・・・
    ・・・・判断なくその自我として、観察していないことを見ている状態

   ・この自己観察とは自我が自我を認識し、自我が自我を意識している状態であって真の意味では自己を観察していない
    ことに・・・・・ハッキリと気がついている状態、要するに私は自己観察していないのだと言うことを意識していること

   ・自我によっては(自我の知覚や認識によっては)「自己を観察するということ」・・それ自体が出来ない・・ということに
    ・・・・気がついている状態、これらを自己観察というのではないか

   ・要するに思考が思考の状態を意識している状態である

   ・そしてこの似非自己観察状態では自己超越が起こらないので、この状態ではループのようにぐるぐると同じ円の中を
     回っているだけであり、決して気づきは生まれずCの観照へと進むことができないことを認知している状態

   ・自己観察、若しくは自我観察ということはCである『思考ではない「未知なる私」』、純粋意識が覚醒していなければ
    不可能であると言うことを理解している状態

   ・要するに私達はこの思考の状態である限りは自己観察をしていない、ということ
    そして自己観察は覚醒していなければ出来ない事なのである・・ということをハッキリと分かっている状態


B想起・自己想起・・・この自己想起が自己観察実現のキーポイントとなる

   (この自己観察を行っていないAのマインドや思考の状態でありながらも
    「未知なる私」に対して(集中ではなくて)全体的で透き通った鋭敏な注意を注いでいる状態
    これを行っているのが現在のパーソナリティーであり一般的に言われている自我意識を持っている霊魂である)
    
    ・優しく、暖かく、柔らかく、且つトランス状態を排除して鋭敏な受動状態で「未知なる私」を注意している状態

    ・動機無く、理由無く、目的や、到ったり、獲得しようとする努力無く「神聖で真実の未知なる私」に注意している状態

    ・この既知なる私・現在のパーソナリティーにとっては未知である「気づき」「純粋意識」「スーパーサブスタンス」などと
     言われている「観照者であり永遠のパーソナリティーである私」の意識に対して注意を注ぐことが自己想起と言われる

    ・自己想起の対象となる自己とは、思考や記憶や自我・現在のパーソナリティーではなく「未知なる私」
     「神聖なる私」であって
     記憶や思考や感情や現在の私によって認識されている私ではないということ
   
    ・もし間違って「自我である現在の自己」を自己として想起してしまう場合は、それは自我想起となってしまい
     自己想起ではない、
   
    ・現在の自己である私には注意を向けずに魂の奥にいる純粋意識である私に注意を向けることが自己想起であり
     それが真の自己の発見へと続いていくと思われる
       
    
    ・肉体や諸身体のセンターには、各次元を貫いて届いているといわれている「神聖なる私」「未知なる気づきの私」が
     在り、そしてハートセンターに届いていると言われている「愛そのものの純粋主体」が在ると言われている
     その「神聖なる真実の私」と「神聖なる真実の愛」に対して、
     動機を持たず、目的を持たず、感謝を持って受動的に注意している状態が真の自己への想起即ち自己想起と言
     われている


C観照

    (この「未知なる私」である純粋なる意識、「思考や想念ではなく自我でもない未知なる私」が、自己と言われる
    魂である現在のパーソナリティー・サイコ・ノエティック体を見ている状態を観照という)
 
    ・この観照状態をクリシュナムルティーは「あるがままを見ている」といわれている
     そしてこれが彼の言う「あるがままをあるがままに見なさい」という「見る」のことである
     クリシュナムルティーはこの観照の目で見ているのだ

    ・クリシュナムルティーやラマナ・マハリシやニサルガダッタ・マハラジが語っているのはこの意識状態・「気づき」から
     であり、彼らの語られていることは彼らの覚醒したレベルの意識状態からであるにも関わらず
     その覚者の観点を、この自我である私達の観点から理解したつもりになったりするが、
     私達にこの観照の目が誕生していない限りは同じようには見る事は出来ない
    
    ・この観照をしているものは自我や魂と呼称されている現在のパーソナリティーではなく、この現在のパーソナリ
     ティーが恩寵による自己想起によってやっと繋がった、魂の奥に在る本来の自己である観照者・永遠のパーソ
     ナリティーであり、その永遠のパーソナリティーの意識即ち純粋意識である

    ・真の私の現象界の接触部分である観照者・永遠のパーソナリティーという純粋意識が見ている事を
     観照と言い、「全体の部分である私」である純粋なる意識であり、観照とは純粋意識そのものであり記憶や
     思考や感情や想念ではない、聖なる真実の私である

    ・この観照という純粋意識と繋がった状態とは、三体整合と言われている状態であり
     肉体とサイコ・ノエティック体(現在のパーソナリティー)と観照者が一列に直結している状態であり
     観照者の奥にある「純粋理性(叡智)」と「聖なる愛」が流れる通路になったことを意味している
    
    ・この観照の意識と「魂と呼ばれている現在のパーソナリティー」が繋がったときはオートマティックに自然に
     真我と呼ばれている非二元・非分離の意識へと結びついていくと言われている


D超観照(非顕現の超宇宙意識)
     
     (この魂と言われている現在のパーソナリティー(素質的可能性のある自己であり自我とも呼ばれている)の奥に 
     ある純粋意識という永遠のパーソナリティー・観照者の私の、更に奥には
     エレブナによって「ソウル・セルフエピグノーシス」と呼ばれ、インドでは「アートマン」と呼ばれている真の私の状態が
     あり、
     その更に奥には非顕現と言われている宇宙意識が在るといわれ言われており
     その意識を超越した状態が超観照状態だと思われます)

    ・原田雪渓禅師やクリシュナムルティーなどによって「自他を分離して見ていることは邪悪である」と言わしめている
     のはこの非分離・非二元の宇宙意識であり
     私達の時空間の結果であるマインドや思考では、想像する事も出来ず計り知る事も出来ません
     この超意識状態であるとき「何も問題ではない」「全ては完全である」「行為は誰もしていない」「全ては起こっている」
     「誰も何もしていない」と・・、このレベルでの言明が為されるがこれが言えるのは釈迦レベルの超意識状態である

    ・エレブナによって「神聖絶対なる宇宙意識」「神聖なるキリスト意識」などと呼ばれている超意識のことであり
     時空間を超越した「今・ここ・あるがまま」の意識とも言われております