荒野に呼ぱわる者の声がする




荒野に呼ぱわる者の声がする

幾世に亘り、何生もの輪廻を重ねて真理を求め続け、自己からの解放を求めた私に荒野からの声が聞こえる
神を求めて荒野に彷徨い、疲れ果てた求道者に、どこからとも無く呼ばわる者の声がする

留まれ〜!!!!と

真我探求している、神を求めていると錯覚する事なかれ、神を求める事なかれ
        ・・・・何に成ることもなく、・・・何処に到ることもなく、留まれ
        ・・・・自我が神を求めること、そのことは邪悪だと、
        ・・・・誰が求めているのかを知りなさいと、何を求めているのかを知りなさいと
        ・・・・自我が自我自身の満足を求めているのだ!この邪悪に留まりなさいと
           この虚偽から動くことなく虚偽を虚偽と観なさいと  

動く事なかれと・・・・動く必要はなく、到る必要はない、目標、目的、到達、実現などは既に此処だ    
          ・・・何処に行く必要もない、動く必要はないのだ  
        ・・・・・マインドについていくことは必要ない、動こうとするマインドに振り回されるな
          ・・・全てを完全に受容しなさいと

良くなろうとしてはいけない
         ・・・あるがままの醜さと恐れに留まりなさい
        ・・・・・良くなろうとしてはいけない、良くなろうとすることそれがマインドの本性だ
         ・・・留まりなさい、良くなろうとしているものとは誰で、どうして良くなろうとしているのかを気づくべきだ
            良くなる必要はないのだ、あるがままが在るのだ、あるがままが良いのだ、この醜いあるがまま
            だけが蝶に変身できるのだ、あるがままから動くことが時間であるマインド・自我の働きだ

何かをしてはいけない・・・・何かを、何かもすることなく、何も目指さず、何も求めずここに留まりなさい
                 何かをすることが猿であるマインドという自我のすることだ 

苦痛と悲しみと恐れに留まりなさい
          ・・・・・良くなろうとしてはいけない、
           ・・・・私そのものが苦痛で悲しみで恐れであることの中に留まりなさい、
              観察者は観察されるもので、その観察者が観察されている思考と言う自我・私なのだ、
              その「観察者は観察されるものである」から動かないこと
         ・・・・・・見る者が見られるものであるこの場所から移動してはいけない
          ・・・・動くのを止めなさい


真我実現を求めることを止めなさい
         ・・・・・真我は真我実現を求めない、何故なら既に真我であるからだ、自我が真我になろうとしているのだ
             それは邪悪だ
         ・・・・・真の私を「虚構であるものが思考する」ことなどは一切出来ない、
             真我は自我や思考やマインドで捉えることは出来ないからだ
         ・・・・考えることも出来ず、思う事も出来ず、想像することも出来ず、近づくことも出来ないものを
            求めることを止めなさい、考えることをやめることだ、考えることから離れるのだと
            求めていると思っていることの虚偽に気がつきなさい、求めていないことに気がつきなさいと
         ・・・・求めることを止めなさい、虚偽から離れなさい、思考から離れなさい
            誰が求めているとおもっているのかに気がつきなさいと、求めているのは自我である
            自我(エゴ)とそして自我(エゴ)の働きから離れなさいと


全てを受容して、いな受容しようとすることも、努力して何かをすることもなく、ただただ何もしないであるがままに
留まりなさいと、
くつろぎなさい、リラックスしなさい、受け入れなさいと、
そして私が自我であり、思考であり、
私の全てが自我であり、全てが思考であり、全てが錯覚であり、全てが虚構であること、
全てが邪悪であることに留まりなさい、
そしてこの邪悪が私であり、この怖れが私であり、この不安が私であり、
この真我や自我の終焉を求めている「邪悪・分離」が私であることに留まりなさいと
マインドがマインドを見、思考が思考の中で動き回っていることの虚偽を虚偽として見なさいと言われる
マインドはマインドの範疇から出ることはなく、思考は思考の範疇から脱出することはないのだ、出口はないのだ

恐怖が恐怖を見ているに過ぎない

それであるので必然的に恐怖は、自らから逃避するために神に近づくのである、又は真我実現を欲するのである

神を求めているのではなく、ただ単に神に逃避しているのである、すり寄っているのだ、自我の満足を求めているのだ、

その逃避のことを真我の探求と呼んで錯覚しているのだ

恐怖に留まること、何処にも行かないこと、何もしないで恐怖が私であることの実相に留まること

良くなろうとしているもの、真我を実践しようとしている私、愛を実践しようとしている私、瞑想をして超越体験を欲望する私は

この邪悪な「分離」である

その「分離」とは思考そのもの、自我そのものであるから、動き回るのである、何かに到ろう、実現しようとするのだ

ストップ!!!留まろう・停止しよう

自我が自我から逃げようとしているのだ、それを真我探求と呼んでインドに行ったりするのだ、それを神に近づいている

と思い込んでいるだけだ、良くなることはない、到ることはない、真我になることはない、良くなろうとしているこの私は

対象である観察者に過ぎないのだから

虚偽を虚偽と見る事が第一歩だとクリシュナムルティーは言われる

そして虚偽を虚偽と見ている事の中に真理は在ると言われる

そのことはとりもなおさず観察者を観察している観照者のなかに真の私が在ると言うことだ

良くなろうと努力し、神にすり寄っているものこそ単なる分離そのものである観察者であり、それこそ私であり思考であること

見ている私こそが見られている自我であるときには、果たして何かをすることが出来るのであろうか

恐怖が恐怖を見ているに過ぎないことを観るときには何もしていないし、何かに成ろうともしていない、このとき

その『観ることという「真実なること」』が起きているのだろう、それこそが観照者の意識である

だから留まれ!動くな!求めるな!良くなろうとするな!神にすり寄るな!それは猿が動いているのである!

と言われるのだ

私達は、その観照者の奥にいる、それが真の私だ

観察者はその真の私に向かって歩むのだ






















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