ワークをすると言うこと

真我覚醒へのこの路を歩む私達はどのように、生きていけばいいのか

そのためには一体何をするべきなのか

その方法や路は沢山あり、本人に会ったやり方が、その人の気質に従って色々と違うことだろう

なので、この方法が一番だとか、これしかないのだとは自分には言えない

けれど、この真我に至っていない久保栄治が一番に推奨する路は

真我として生きること・・・・これである

私にはこのみちが一番あっている、では真我として生きるとはどのように生きるのか

真我に全く至っていない久保栄治がいうのもおかしなことだが、聞いて欲しい

此処が非常に複雑なので、ゆっくり進みたい、これからが整理して進みたい

小説を読むようにさっと、目を通して分かったと言うことは出来るが、ゆっくりじっくり進みたい

じっくりと、ゆっくりと自分の中で考えながら、整理しながら、一歩一歩、亀やカタツムリが進むように

お互いに納得していこう


「真我として生きること」、この言葉の中には整理しなければならないことがふたつある、

それはまず真我とは何かと言うこと、それと生きるとは何かと言うことだ
それでは
まず、生きるとは、何か。
「生きる」と言うことには、多くの、それは無限に多くの意味合いがつけられるであろうけど

この自分にとっては
生きるとは在ることであるとそう信じている。
自分にとっては生きるとは「在る」と言うことなのだ、「在る」とは「見る」ということなのだ

この自分にとっては「すること」「起こること」こととは「生きること」ではない、真の私ではない

こんなことをいうとあいつは頭がおかしいと言われるか、なんと無責任かと言われるかもしれない
しかし、自分はそのように考えているのだから、仕方ないのだ、今のところはそう言う考えに私は結論したのだ

で、話は元に戻ると、この自分にとっては「する」ことは「生きること」ではないし、真の私とは関係ない
更にその「する」「している」自分とは全くのねつ造物されたもので、真の私とは全く関係ないものであると考えているのだ

このような私の考えであるので
何かを、「する」「行為する」「欲望する」「願う」「行う」「考える」「感じる」「生きている」ということの根源である主体というもの
現在の自覚されている私
この久保栄治という人格や個性そのもの、いやもっと奥にある「主体」「私」そのものが真の私ではないと
思っているのだ、信じているのだ

これは言葉の遊びのように思えるかもしれないが、私はそのように信じているし、そのように結論している

なので、自分の人生の内面、即ち心の中で起こるいろんな気持ちや思いや考えも、そして自分の外部に起こる出来事や、話される人の話や、出会う人々、押し寄せるカルマからの激情、ワサナからの強烈な排除できない感情や思い、そして自分の肉体の健康や病気、成功や失敗や、色んな出来事、起こること、生まれてきたこと、そして苦しむこと、死ぬこと、等々、いろんなやってくることの全てが

それら全ては外部からやって「意識というスクリーン」に映し出されているものであるので

全てが上映されている映像である

それらは映像であり、わたしというそのスクリーンではない

真のわたしとはそれらの「意識というスクリーン」に映し出されている映像ではなくて

そのスクリーン、そのものであると思っている

私の考えとはそう言うことなので、自分自身が、この人格であり個性である久保栄治そのものが、この意識というスクリーンに上映されている映像であり、
その中身であるところの好きになったり嫌いになったり恐れたり不安になったり、カットなったり、いきなり沸き上がる欲望や暴力や、何かの感情や根強い情緒的反応やそれらのもの全てが自分ではない

この知覚し、知覚される自分をも含め、その自分の内容の全てが、真の私ではない

とそのように思っているのだ


さて此処まで一緒に考えてくれただろうか、ここで一旦休止して、

呼吸を整えたら、さらに思索を続けたい

では

これらのことを全てを見ている自分

観察している自分

そう思っている自分とは一体誰か、観察者とは?

さて此処が一番の難しいところだ、こんがらがってしまうところだ

此処が最大のポイントなのだから

この「意識の座」

この「スクリーンの意識の座」にやった来ては去る思考や、感情や、欲望や、想念や、肉体や出来事を見ているもの
観察いている者、気づいている者

観察者、見ている者、私

それは?

それは!
このス「クリーンの意識の座」にやった来ては去る思考や、感情や、欲望や、想念や、肉体や、出来事などそれ自体である

そのやってきている思考や感情や欲望や想念自体が分離して、それを見ている観察者を創り出しているのだ

ということだ

ということなので、自分の中や外のことを観察している自分自身、その観察している観察者こそが、即ち主体が、大問題なのだ

その主体こそ偽物なのだ、私ではないのだ、これは真の意味で「見る」と言うことが出来ないもの、即ち見られる対象というものを創り出してしまうシステムである「マインド」という時間そのものなのだ、それは別名二元性ともよばれているし、根本無明とも呼ばれているし
この真我の窓である「意識の座」を覆っている「こころという分離性」である、これが自分と自分以外を生みだし、自我(エゴ)を生みだし、私と他人を生みだし、「見る主体」と「見られている客体」という分離構造を生み出しているものである

それらは本当の主体ではなく、意識のスクリーンに現れては去る、偽の主体なのである

手っ取り早く言うと、この自覚されている久保栄治という私は私ではないと言うことだ

この久保栄治や輪廻している私は私ではない、この主体は私ではない、このことを観察している観察者は私ではない

では私とは誰か

さて、此処でやっと、最初の話題に戻ることが出来た

私とは「在る」であると言われている、これは未知なるものだが

「私・在る」とは目そのものであると言われている、即ち目とは「見る」「正見する」である

であるので、最初のテーマに戻って

真の私として生きるとは

真の私として見る

と言うことなのだ、これがワークであり、自分の人生なのだ、生きることは見ることなのだ、但し分離無く、「見る者は見られる者」として

見ること

見ること

ただ見ること

その「意識のスクリーン」に上映されているものを

その観察者、見ている者はその対象が生み出したその一部そのものであることを自覚しながら

その観察している観察者は観察されている者の一部である、観察されるマインドが生み出した者である

この現在の内面で観察されるところの、その強烈な欲望や願いや、感情や暴力や憎悪は、

それら内面の感情や思いを見ている者それ自身であることを

自覚しながらただ見ること

出来ないとかそれは不可能だとか言ってはいけない、可能か不可能かは貴方が決めることではない

可能か不可能かは問題ではない、問題は見るか、見ないかなのだ

みること、ただ見るのだ、内と外を分離せず

見る者も見られる者も、真の私ではない、

その見る者と見られる者が別々に感じられること自体が見ていないことを証明している


真の見るとは「見る者は見られる者である」この実際の体験である


自分にとって、それが可能か可能でないかではない

分離無く見るのだ

その観察している自分や観察される欲望や恐怖を一つものとして見ること

それが

真我として生きることである

これが私たちの人生である

真我とはハートであると言われている

今・此処に在ると言われている

在るとは、目であると言われている

目とは見ることである

これら私ではないものを全てを私ではないと、見続けることが生きることである、ワークである


私ではないものとは

この見ている者であり、既知であるもの、既知である私である

この意識し、されている私であり、この体験する私であり、経験している私であり、認識している私、認識されている私である

観察者は観察される対象自体でありそれは、共に私ではない、

既知なる自分、

知覚され知覚している私は真の私、真我ではない

真の私は在る

真の私は見る

それは在る

と言われている







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