100の私でないもの

否定的接近はより真我を露わにするとおもいます、よりその未知なるもの、聖なる状態、真我をハッキリと強く肯定する働きをすることでしょう、その否定自体が強く肯定するのだとおもわれます
それに比べて
肯定的言語は私達がマインド・思考に被われている限り、そのマインドを使おうとして思考の網に捕らわれる事があります
どうしても否定的言語では不可能なときに限ってのみ使われる方がいいと思います

以下は真我を実現した「ある方」からの言葉の抜粋です(一部間違いがある場合は責任は当方にあります)

私は肉体ではない

私はこの物質界に転生する前に父母を選んだものではない、私は転生を選んだものではない、私は輪廻転生していない

私は精妙体ではない

私は魂ではない、たまゆらではない

私はワサナではない

私はこの物質界を去って後に、霊界にて自分が今回の転生でやってきた来たことの内面と外面の全てに亘って見ているものではない

私は生まれるものではない、生まれていない、私は肉体ではないのだから

私はこの空間にいない、何処にもいる、私は偏在している

私はこの時間にいない、いつでもいる、私は久遠である

私は死なない、肉体の死は私には何の関係もない、私は生まれていないのだから、死ぬことは出来ない

私は感情ではない、感情は私にやってきて去るものである、それは外部からやってくる、それは愛ではない、真我の感情ではない

私は思考ではない、思考は私にやってきて去るものである、それは外部からやってくる、私は全き空である

私は概念ではない、概念は私にやってきて去るものである、それは外部からやってくる、私は全き空である

私は私ではない、それは肉体との同一化によって作られた想念形態にすぎない

私は人格ではない、それは私が在ると思っている想念で作られた虚構である

私は分離していない、自と他が分離していると思うことは虚偽である、自他の分離は虚構である、一つである、一体である

私は空間に限定されていない、空間に縛られていると思うこと自体が錯覚である、何処にもある、全てにある、普遍である

私は時間に限定されていない、過去と未来に分けることが分離であり、時間は存在しない、常にある、常在である

私はマインドの知覚の対象ではない、マインドの罠にはかからない、知覚がマインドの道具である、知覚ではない

私はマインドの認識の対象ではない、マインドの罠にはかからない、認識がマインドの道具である、認識ではない

私はマインドの体験の対象ではない、マインドの罠にはかからない、体験がマインドの道具である、体験ではない

私は心ではない、心という二元性ではない、私は二元性の本体である心・マインドではない

私は二元性ではない、分離性ではない、その分離性・二元性こそ現象界を構成しているものである

私はマインドではない

私は感覚ではない、この感覚というマインドに限定されたものではない、また超感覚というものでもない、超感覚を超えている

私は抽象ではない、この抽象という概念こそマインドが創りだした物である、私は抽象ではない

私は行為者ではない、行為を見るものである、行為と見ることは同時であり、そこに時間やマインドの介在する余地はない、行為はない

私は言語や言葉では接近できない、「私は在るもの」である

私は知識や情報では接近できない、私は知ることは出来ない

私は意識ではない、意識は脳を経て条件付けられている、私は存在である

私は知ることは出来ない、何であれ知ることの出来るものは私ではない

私は外部ではない内部でもない、内部は外部でありそれは共に私ではない、全ては私のうちにあり、私が世界である、私の内に全ては存在する

私は限定できない、無限である、全てに浸透し、分離していない

私は恐怖ではない、恐怖はマインドであり、分離が生み出したものであり、私は恐怖ではないものである

私は真の至福である、真の自己のない歓喜であり、法悦であり、喜びそのものである、マインドでは体験できない喜びである

私は真の愛である、真の自他の分離のない愛であり、マインドでは体験できない愛である

私はあなたである

私は敵である、従って敵は存在しない、私は全ての人類そのものである

私は全てである、従って私以外には誰も存在しない、私が虚偽で在ることが看破されたとき全てが私である

私はマインドではない、全き平安である、静寂である

私は光である、光を見ているものではなく光そのものである

私は有限ではない、限りあるものではない、久遠にして無限、理解を超えているものである

私は意識ではない私は意識を成立せしめている基底である、意識を超えた存在である

私は無意識ではない、私は無意識を成立せしめている根源である、無意識を支えているものである

私は全てのものの中に在るものである

私は自己ではない、自己意識、自己関心はマインドの意識であり虚構である

私は最も貧しきもの、最も汚れたもの、最も価値のないものである、そしてその中に最も豊かなもの、最も高貴なるもの、最も価値あるものを見いだすものである

私は完成であり、完全であり、完璧であり、既に成就している、良くなること、進歩すること、悟ること、愛する事が出来るようになることなどの時間の概念を含むことはマインドの虚構である

私は神である、神は私である、何処に神を求める必要が在ろうか、私自身が神そのものであるというのに

私は比較しない、比較はマインドからの心、そのものである、私には比較すべき分離する対象たる相手が存在しない

私は権威ではない、権威は従うものを真我である内面から焦点をはづれてしまい外部に求め始める、従って私は権威ではなく誰にも気付ずにそっと道ばたに咲いている野草の一輪である

私は利用しない、利用するものは利用される、その利用という動機は相手の破壊である、愛が少しでもあれば利用ということは起こらない

私は選択しない、何故なら全ては見えており、全てが最善に且つ一番適時に秩序通りに起こるからである

私は自由である、何故なら、行為者は存在しないこと、行為は行われていなかったことを見たからである、現象界は夢であったことを見たからである

私には等級はない、全ては一つであり一体であり差別を付ける分離がないからである

私には意志はない、思うことは全てマインドの範疇を超えており、マインドがその真我に使われているからである、意志を超えている

私は主体ではない、主体は客体を提示する、主体と客体の二元性を終焉している

私は言葉ではない、言葉を作り出すものである、言葉はこの分離世界に於いて機能するが分離していない世界に於いては言葉以上ものもが共通の存在状態の中にある

私は存在する

私はありて在るものである

私は神である

私以外には神は存在しない

そして私はあなただ

あなたが私だ

あなたが神だ

と、以上の様に言われます

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