自他を分離して見ていることは邪悪だ


クリシュナムルティーは言った
自他を分離してみることが邪悪なことだと
私はNHK放送のようにはなりたくない
物質界、幽界霊界を含めてこの現象世界を、
この輪廻の世界をさも美しく愛のある世界のように想わせることは邪悪だ
下は墓場で腐った死体が悪臭を放っているのに、
その上に美しい輝く宮殿を建て香水をまき散らしているようなものだ

実際は、この私達は自他を分離してみており、
その分離そのものが暴力と殺戮、恐怖と不安と悲しみが、その本質であるのに
この自他の分離のまま、自分が良くなり、地球は良くなり、天国が来ると錯覚している
天国は来るのではなく、内に在るのに
アセッションは来るのではない、既に内にあるのだ!!

クリシュナムルティーは又このようにも言った
持続は腐敗である、腐ることである、と
勿論、この場合の持続とは輪廻のことを指している

ニサルガダッタ・マハラジはその分離のことを端的に指摘する

「助けるべき他の人々はいない。

ある裕福な人は全財産を彼の家族に投げ出し、乞食に与える一枚の貨幣さえもない。
賢者(ジニャーニ)も彼のすべての力と所有物を捨て去り、
何も、文字通り何も彼について言えることはないのだ。

彼は誰も助けることは出来ない。

なぜなら、彼がすべての人だからだ、

彼がその貧しい人であり、

その貧困なのだ。

彼が泥棒であり、

また盗みなのだ。

彼はそれらと分かたれてはいない。

どうして彼に助けることが出来るだろうか?

世界から分離していると考えている人に世界を助けさせればいい。


しかし
質問はニサルガダッタ・マハラジに投げかける
:それでも二元性はあり、悲しみはあり、助けの必要があります。
それを夢として放棄することでは何も達成されません

「ただひとつ助けになること、それは夢から醒めることだ」

更に質問:それには目覚めた人が必要とされます

「その人も又夢の中にいる。

目覚めた人が終焉のはじまりを意味している、永遠の夢などないのだ。ー中略ー

始まりなきものは永遠にはじまる。

同じように私は永遠に与え続ける。

なぜなら私は何も持っていないからだ。

無として在り、何も持たず、自分自身のために何も蓄えないことは、最高の寛容なのだ。」


質問:自己への関心は残っていないのでしょうか

「勿論、私は自己の関心を持っている。しかし、全てが自己なのだ。

実際それは尽きることのない普遍的な善意の形をとっている。

あなたはそれをすべてにいきわたり、全てを救済する愛と呼ぶかも知れない。

そのような愛は、行動しているという感覚を持たないにもかかわらず、最高に活動的なのだ。」


分離についてのニサルガダッタ・マハラジの言及

「すべての分離はマインドの中にあり実在の中には分割はない。

運動と休息はマインドの状態であり、互いに対極無しには存在できないのだ」

「マインドを超えたところでは体験はない。体験とは、二元的状態だ。

実在を一つの体験として語ることは出来ない」

「何であれ、語られたことは言葉に過ぎない。何であれ考えられたことは思考に過ぎない。

真の意味は説明不可能だが、体験することは可能だ。

“偉大な真言”は真実だが、あなたの観念は偽りだ、何故なら全ての観念は偽りだからだ」

「“私は在る”という感覚が現れると、ー中略ー太陽と共に光が差し込むように、

“自己の感覚”と共に至福(アーナンダ)が訪れる」

質問:それを知り体験しない限り私にとって何の意味もありません

「あなたは実在を体験のレベルにまで引き下げているのだ。

どうして実在が体験に依存できるというのだろう?

実在は体験の根底そのものなのだ。ー中略ー

体験は、つまりマインドの状態なのだ。

一方、在ることは明らかにマインドの状態ではない」

「分離は見せかけだけだ、夢が夢見る人から離れていないように、

知ることも在ることから離れていない。

夢は夢見る人であり。知識は知る人なのだ。区別は単に言葉の上に在るだけだ」


ニサルガダッタ・マハラジ










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