言語を超越した、「沈黙の言葉」について
真の言葉は、言語を超えている、と言われている
「初めに言葉があった」との聖書のこの言葉とは
ラマナ・マハリシの指し示す、この沈黙の中に響き渡る、至聖なる言葉なのかもしれない
ラマナ・マハリシ「あるがままに」からの抜粋です
質問者:この沈黙の力はどのように作用するのでしょうか
ラマナ・マハリシ:言語は人の想いを他の人に伝達するための媒体にすぎない。
それは想念が現れたあとにのみ呼び起こされる。
「私」という想念が立ち現れたあとに、他の想念は続く。
それゆえ、「私」という想念が全ての会話の根源と言えよう。
思考のない状態にとどまるとき、ひとは沈黙という普遍の言語によって他者を理解するの
である。
沈黙は絶えず語っている。
沈黙は話すことによって妨げられてきた、絶え間のない言葉の流れである。
私が今こうして話しているこれらの言葉が、その沈黙の言語を妨げている。
たとえて言えば、ここに電流が電線を伝わって流れている。その経路に抵抗を与えること
によって、それは電灯として輝き、扇風機として回る。電線の中ではそれは電気エネルギー
として留まっている。
同じように沈黙も永遠に流れる言語であり、言葉によって妨げられているのである。
何年にも及ぶ会話でも知ることが出来なかったことさえ、沈黙の中では一瞬にして知られ
うる。
ダクシナームルティーとその4人の弟子たちはこの物語のこの良い例である。これが最高の、
そして最も効果的な言語である
ー中略ー
グルとの接触について
ラマナ・マハリシ:彼らと接触を持つことはよいことである。
彼らは沈黙を通して働くであろう。
話すことによって、彼らの力は減少してしまう。
それゆえ、心の繋がりが最も良いものである。
ー中略ー
ラマナ・マハリシ:グルは身体的形態ではない。
それゆえグルの身体が消滅した後も心の繋がりはそのまま残る。
グルが死んだ後、別のグルのところに行くことも出来る。
だが、全てのグルは一つであり、その中の誰一人として身体である者はいない。
それゆえ、常に精神的な繋がりが最上である。
質問者:恩寵の働きとは、グルの心がはたらきかけているのでしょうか、それとも、それは何か違った過程
なのでしょうか。
ラマナ・マハリシ:恩寵の最高の表れは沈黙である。そしてそれは最高のウパデシャ(教え)でもある。
質問者:ヴィヴェーカナンダは、沈黙が最も大きな声の祈りであると言いました。
ラマナ・マハリシ:探求者の沈黙に於いてはそうだろう。
グルの沈黙は最も大きな声でのウパデシャ(教え)なのだ。
それはまた恩寵の最高の表れでもある。
他の全てのデクシャは沈黙という源から由来しており、それゆえ二次的なものだ。
沈黙がその原初の姿である。グルが沈黙していれば、弟子の心は自動的に浄化される。
質問者:シュリー・バガバンの沈黙自体、強力な影響力をもっています。それは私たちの心に平和をもたら
します。
ラマナ・マハリシ:沈黙は絶えることのない言葉である。
声に出した言葉は沈黙の言葉を妨害してしまう。
沈黙のなかでは、人は周囲との親密な接触の内にある。
ダクシナームルティーと沈黙の力は4人の弟子達の疑いを取り払った。
「マウナ・ヴァーキャー・プラカティータ・タットヴァム」とは「沈黙によって説かれた真理」を
意味している。沈黙は真理の教えである。沈黙とは、実に強力なものである。
音声による言葉には器官が必要だ、そしてそれが言葉に先行する。だが沈黙の言葉は
想念さえも超えている。
それはつまり、話された言葉も、話されない言葉(パラー・ヴァーク)をも超えているので
ある
質問者:誰もがこの沈黙から恩恵を受けるのでしょうか
ラマナ・マハリシ:沈黙は真の教えである。
それは完全な教えである。
それは最も熟達した探求者にのみふさわしい。
他のものにとって、それからインスピレーションを引き出すことは不可能だ。
それゆえ、彼らは真理を説明するために言葉を必要とするのである。
だが真理は言葉を超えている、それは説明を許さない。
言葉に出来ることは、ただそれを指し示すだけである。