自我(エゴ)の根源に至れば
もし貴方が世界と、その他の全ての知覚の基盤である自我(エゴ)の源をたどれば、
自我(エゴ)は全く存在しないこと、
あなたが見ているこの創造された世界もまた存在していないことを見いだすであろう。(ラマナ・マハリシ)
ラマナ・マハリシは「あるがまま」の中で以下のように叙述している(意訳)
◆真我ではないと、思考することは単なる想念である。
真我を実現し、覚醒しようとすることが観念であり、
思考と想念観念が無いとき、真我は今此処にある。
◆私は実現しようと思うことがマインドであり、私ではないものだ。
これはマインドであって私ではない。
私とは非二元性であり
真我とは「見るものは見られるものである」の「見」である、神である。
◆既に実現しているのに、実現しようとするのは誤りだ、錯覚だ、想像だ。
●「私は実現していない」という観念を追い払うだけだ、この観念が障害であり、想像だ。
●思考・マインドの消滅は静寂又は平和である。
●真我は到達されない、私は真我である、既にそれなのだ。
●解脱を求める必要はない。事実はそこには束縛はなく、既に解脱している。
◆本当はマインドというものはないのだということ、マインドとは真我の現象である。
●この私の身体の感覚が誤りである、この感覚が去らねばならない。
◆個人などないのに、マインド自身が肉体を自分だと思いこみ個人が発生した、自他の分離が始まった。
(※マインドが脳を使用して肉体を自身と思いこみ個人と想像し、世界を投影している。このマインドである個人こそ感覚であり、
知覚こそマインドの知覚であり、真我の知覚ではない、この対象の世界はマインドの感覚だ)
●身体や世界は不変不滅の存在であるところの意識のスクリーン上を通り過ぎるつかの間の現象だ。
●私たちの想像上の無知が不必要な苦悩を与えている。
◆苦悩(マインドの)から解放される唯一の道は、真我を知ること、真我として在ること、無思考であること、マインドが無いこと、
二元分離ではないこと、これがあるがままをあるがままに見るということである。
(※この真我から生じているマインドそのものである第1想念(自我(エゴ)の根源)に至ることである、その第1想念の発生する
瞬間を捉えること)
◆私の無知は、単に想像上の無知に過ぎない、この無知を正見したとき(「見るものは見られるものである」とみたとき)、無知
はない
●私たちは自分で無限の存在であるのに、限界を押しつけ、それから自分は限定された創造物だと嘆くのである。
そしてありもしない限定を超越するために、あれやこれやといった霊的修練を始めるのだ。
だが、この修練そのものが限定された存在を仮定したものなら、どうしてそれが限定を超越する助けになるのか、
私たちは既に純粋な存在であり、真我なので実現しているのだ。
◆私たちの身体感覚は(五感)はマインドの感覚であり、私の感覚ではない。
(※マインドがマインドに至ったとき、マインドはそこには存在していない。これがマインドを抱きしめること、「見るものは見られる
ものである」ということである。思考無しでマインドを見ることであり、これが出来ないと思っているものこそがマインドである、そし
て思考である。)
●非実在というものは存在せず、ただ真我だけが存在している。
もし貴方が世界とその他の全ての知覚である自我(エゴ)の源を辿れば、自我(エゴ)は全く存在していないこと、貴方が見ている
この想像された世界も又、存在していないことを見いだすであろう。
(※マインドが頭脳を通じて自己を生みだし、この自己の記憶が(サイコノエティック体)転生していると想像している。)
●自己とは心・マインドが生み出した作り事であり、これが真我の真の体験を覆い隠す、実際には存在しない個人的自己である
◆真我の中には主体も客体もない、真我とは非二元性・非分離性である。
◆私とは真我ではないと思うことが思考であり、概念である。私は真我以外であると思うことを止めよ
(※「我は神なり」と思うことは、「我は神なり」そのものではない。思うことはマインドの策略だ、思うのではない、無思考で
「在る」のだ、だから正しくは「我は神なり」という存在であり、それは既に在る、存在している。なのでそれを思ったり、考え
たりすることは出来ないのだ、既に在るのだ。)
○我は真我・神なりでないと思うことは概念であり、作り事だ。
(※作り事・想像とは「我は神なり」以外の概念であり、想念である。だから「我は神なり」は想念や、思念や、思考や、思ったり、
感じたりすることではない
■真我の状態は「見るものは見られるものである」であり、見るものも、見られるものもない、ただ真我のみがある、
真我が神である。
■真我の状態はただ在ることであり、何かを知ることでも、何かに至ることや、実現することではない。
■非存在の虚偽であるマインド・想念が「我は真我である」ではないと思うのだ
■「我は神なり」の中には考えることは、何一つ無い。
■「我は神なり」の真我の視野の中には身体は存在せず、幻想の力に惑わされて外へと向かう心の視野の中にだけ身体は存在
している。
■必要なのは我々が束縛されている、解放されていないという誤った観念を追い払うことだ。人が解脱を願う間は、束縛された
観念を持っている。
(※意識の座という鏡に去来するマインド(私・自己、世界、宇宙、時間)を見ているものは、そのマインド自体である。
鏡に去来する行雲流水はマインドが投影している)
●見るものと見られるものという分離がマインドを構成している。その心・マインドは真我の中に溶け去っている。
見るものも、見られるものも存在しない。
実はマインドは来ることも去ることもない。
●至福・歓喜・幸福こそ真我の状態である。(※それは所有や達成にはない)
●想念・マインドはハート・真我から起こり、そこで存続し、そこへ消えていく。
想念は心の内容であり、想念が宇宙と自己を作った。
●「私は実現していない」という考えこそ一つの障害なのだ。
●非実在と言ったものは存在せず、ただ真我だけが存在している。もし貴方が世界とその他の全ての知覚の基盤である自我(エゴ)の源をたどれば、自我(エゴ)は全く存在しないこと、あなたが見ているこの創造された世界もまた存在していないことを見いだすであろう。
●存在が在るので意識がある
意識があるので心がある
心があるので身体がある
身体があるので世界がある