複数の人格・記憶は連続していない
≪同一で継続している「観照者・意識の座」にその都度出現する別個の人格達と体験者達≫
ニサルガダッタ・マハラジは
私と言う個人・人格は複数の人格・体験者から構成されているにもかかわらず、あたかも連続して同一人格
が継続しているように思えるのは、「同一の意識の座・気づき」が継続しているからであると指摘している
それらの人格群には継続性がないにも関わらず、即ち同じ人格が継続しているように見えるのは、同じ同一の
意識の座が継続しているからであるといわれている
そしてその体験毎に異なる体験者人格がその都度、意識の座に現れるのだ
この頭脳と肉体には同一の人格が継続しているのではなくて
各体験毎に異なる体験者と人格達が出現しているのだと
「明らかに、体験されたすべてのことは体験だ。
そして、すべての体験のなかに体験者が現れる。
記憶が連続するという幻想を与えるのだ。
実際には、各体験にそれぞれの体験者がいる。
そして、同一であるという感覚は、すべての体験者と
体験との関係の根底に
おいて共通の要因があるためだ。
同一性と連続性は同じものではない。
(※連続性は共通の要因・即ち「同一の意識の座・気づき」が支えているのであたかも同一人格の
記憶が連続しているように思えるだけということ)
ちょうどそれぞれの花がそれ自身の色をもっていながら、そのすべての色は
同じ光源をもとにしているように、数々の体験者も記憶においては別々であ
りながら、本質においては同一の分割不可能な気づきのなかに現れる。
この本質こそが根源、基盤、そして時空を超えたすべての体験の「可能性」
なのだ。
(※本質と言われる意識の座・気づきこそが根源体験への「可能性」であると言われている)」
この限定されている知覚には
私と言う同一の人格が今回の人生そして過去世から来世へと色んな体験をしているように感じられていても、
真実は、その時々の体験は体験者が別々にいて、ひとつずつの体験にひとり毎の別の体験者が別個に同一の継続
している意識の座に出現してくると言うのである
だから別個の記憶を持っている個人人格がその都度出現し体験しているという
そしてニサルガダッタ・マハラジはいう
それらの人格達・私とは観察者(観照者ではない!)であって行為しているもの(行為している行為者)ではないと
人格達は行為していないと(行為は聖なる根源が起こしており体験者は行為していると思い込んでいるだけだと)
「それらのマインド(※記憶である人格)と自己同一化するな
欲望はもちろんマインドの状態だ、私(※気づき・観照者)とはマインドではない」と
「マインドを理解しなさい、そうすればマインドはあなたを掴んでいる手をパット離すだろう」
「私、あるいは『わたしのもの』と呼べるようなものは存在していない
そこにあるのは欲望、怖れ、怒りであり
マインドがこれは私だ!これは私のものだ!(※これが私の状態だ)というのだ」
「知ることは、在ることと愛することとともに、あなたの真の本性の反映なのだ。
知る者と知られるものは、マインドによって加えられるのだ。
実際は何もないところに、主体―客体の二元性をつくり出すのがマインドの本質なのだ」
そして更にマインドという時間が創り出す虚偽について彼は言う
「待つことは無駄なことだ。
問題を解決するために時間に依存することは自己欺瞞(ぎまん)だ。
未来は、単に過去がそれ自体を繰り返すだけなのだ。
変化は未来のなかではなく、いまの中だけで起こりうる。」
(※将来のある時期に次元上昇して良くなるということは過去に戻ると言うこと、今である事から離れてしまうことだ
過去が未来を生み出している、そして過去とは常に結果であり、原因ではない。原因と結果は今の中には
あり得ないと言われている)