私という観念


何故、他人の生活の安定を求めないで、自分の生活の安定を求めるのだろうか

何故、他人の幸せを始めに希求しないで、自分の幸せを求めるのか

何故、他人の健康を願うより先に、自分の健康を願ったりするのか

何故、他人の解放を願うより先に、自分の解放を求めるのか

何故、他人の安全安定を心配しないで、自分の安全安定を心配するのか

何故、他人の覚醒や平安や法悦より、自分の覚醒や平安や法悦を求めるのだろうか

何故、他人からの愛を求めるよりまえに、自分が最初に愛することをしないのか



その自分のことで願い、求め、欲し、心配しているものとは・・・誰なのであろうか?

それは勿論・・・私である


それではそれを求め、心配し、願う私とは、『どの私』なのであろうか?


それはその私とは他と分離しており、自分を肉体(若しくは肉体でもなく)であり、他人とは別の自分だと思っている私である



しかし、それがそう思ってしまうのには、根拠があるからである

何故なら、それがそう思うのは『「自分が他とは異なる身体(又は質料)である」という確たる確証があるからだ』

・・とそれは思っているのだ、


それは正確には自分の魂(霊魂ではない)ではなくて、魂(霊魂ではない)を捕食し浸食している「私という観念」が

肉体を自分だと思ったのである


その「私という観念」が自分は他人とは異なる身体であると思ったのである

そしてその「私という観念」が魂を覆い、そして又現在意識をも覆ってしまったので

現在意識の自分が、『「私は身体だ」と思っている』と錯覚したのだ



「他人とは分離している異なった身体だ」と思うだけで「私は他人と分離している私だ」という「分離した自己」と云う

観念が生じるのだろうか?



その「私は他人と分離している私だ」という観念はその個体から生じているのではない

その「私は他人と分離している私だ」という『私観念』がその個体に侵入したのである、浸食したのである、捕食したのである

その「私は他人と分離している私だ」という『私観念』が引き起こしているのが第一人称であり、その第一人称が第二人称や

第三人称の認識をしているのである



この「私は他人と分離している私だ」という観念は、すなわち「私という根本観念」である

この観念は自己、自分、主体、私達、自我など多くのレベルで多くの言い方をされているが、みな同じ分離した「私という

根本観念」である


この「私という根本観念」が私を覆い、世界を覆っている、

世界が腐食されている、

世界の苦しみと悲しみと憎しみと恐怖と争いと

不安と暴力はこの「私という根本観念」が原因で引き起こされたのである



・・がしかしこの「私という根本観念」とは一体なんであろうか?

ラマナ・マハリシのいう「私という第一観念」とは何か?

私達の魂にまで深く覆い、現在意識を覆い尽くしている「私という根本観念」とは  な・に・か?

この私達人類全員の魂をここまで覆ってしまっている「私という根本観念」とは何なのか?



この「私という根本観念」から知識や体験や認識や記憶や印象や行為や間違った知覚等が生じている以上は

知覚や認識や行為や体験ではそれには接近できないであろう、それらはその観念に属しているからである



知覚や認識や行為や体験が既にそれによって汚染され、それの媒体になっているからである



そういうことなので、その「私という根本観念」に接近し、それと接触するためには知覚や認識や行為や体験ではなくて

それ以上の直覚と言われているものでなければならない



また、それには脳内麻薬や「脳手術」、エクスタシーやトランス状態や、内部や外部に何かを見たり聴いたりしている

「対象知覚」では接近できないだろう、


それらはすでに「私という観念」の意識領域内のことであるからである



この直覚とは言語を用いず、テレパシーではなく、言葉のやりとりでもなく、言葉の観点から見たのなら全くの

沈黙のなかのことであろう


だから私達はこの沈黙の中を、言葉を使わないで歩いていかねばならないのだろう

知覚なく、認識なく、行為なく、体験なく・・・ただみることによって


この直覚のなかには「私という自他に分離した観念」もなく、「私という観念」もなく、

従って「あるがままをあるがままにみている私」も無く、

あるがままがあるがままにあることであろう、


そこには「それを見ている私」がいないことであろう

見ている私がいない状態こそが純粋なる意識なのではないだろうか、それが真の私だろう・・・と思われる


この直覚こそが「目」といわれているものであり、「目そのもの」であり、本当の純粋なる意識である事だろう


この「私という観念」に汚染されていない純粋なる意識こそおそらくラマナ・マハリシのいわれる真我であるのであろう






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