オープンマインド

何故オープンマインドをしようとするのか、オープンマインドをしようとしているものは誰か、何故無心になるのか

それはオープンマインドをすることで何かに成ろうとしている、何かを得ようと待ち構えるからである、それも自分の為に

獲得するためにだ

自分の為の目的があってオープンマインドをするのである、自分なりに考えたダイヤモンドというものを得るためにだ

若しくはダイヤモンドになるためだ、

しかしそれはダイヤモンドではなくて自我の欲している「満足」という自我の拡大だ、偽物のダイヤモンドだ

獲物が引っ掛かってくるように待ち構えて、神という、自分の成就という、自分の達成を、自我の終焉という成果を得るために、

その聖なる恩寵を待ち構えているのだ、その為にオープンマインドをするのだ、それは取引であって無心ではない

即ちこういうオープンマインドとは自分の為に自我がしているのである、それは本当のオープンマインドではない


そのような欺瞞のオープンマインドの状態では聖なる恩寵ではなくて、その逆のものが流れる可能性も否定できない

何故ならそのオープンマインドは汚れているからである、自分の目的や、自分の動機があって行っているからである

ただただのオープンマインドではなくて、何かのためにオープンマインドをするからだ

その様なことでは、同じものは互いに引き寄せ近寄り、同じ波長が同じ波長を認識するであろう、その欺瞞が欺瞞を招くのである

自分が認識するものは自分が招いたのである、招いたのではなく自分そのものが顕わになったのである

では動機も目的もなく、ただただオープンマインドでいることはできるだろうか

ただただ起きている事を受容して、あるがままの全てを受け入れることが出来るだろうか、全託することが出来るだろうか

喜びも悲しみも、失敗も成功も、快楽も苦痛も、不安も平安も、希望も絶望も、恐怖も安心も、順調も不順も、拡大も縮小も

全てをなんら選り好みすることなく、全てを感謝して受け入れて

選択せず、来るものを拒まず去るものを追わず、善悪を判断しないで・・

あるがままをあるがままに全託したとき

そのとき

あるがままが流れてくるだろう

この流れてくるあるがままが絶望であるなら、それはこの観察者が絶望であると言うことではないか

「見るものは見られるものである」であり観察者は観察されるものであるからである

その動機もなく目的もなくオープンマインドであるとき、あるがままが初めて受容されるのではないか、分離していない一つとして

私が恐怖を見ているのではなく恐怖が私であるとき

私が苦悩を見ているのではなく苦悩が私であるとき

私が絶望を見ているのではなく絶望が私であるとき

あるがままを私にとって都合の良いことや、利益になったりすることや、満足を与えることに選択することなく全てを受け入れ

この「分離していないあるがまま」が「あるがまま」として「見る者と見られる者」とに分離していない一体であるとき

秩序が生まれるとクリシュナムルティーは教えておられる



この「見るものは見られるものである」とき、その恐怖やその恐怖を見る私はひとつになる

恐怖である恐怖を見ている私は、その恐怖という対象とひとつとなり、そこに平安が生まれると言われる

中空の竹になっているとき、そこに気づきの私が生まれる


あるがままをあるがままに感じて受容するとき、分離していないあるがままにあるとき、主体と客体を分離していないとき

あるがままをあるがままに味わい尽くすとき

あるがままが新(あらた)なるあるがままとして生まれるのであると教えられている




あるがままをあるがままに見るとは

私が「私と言う対象になっている私」を見ている状態のことではない

私を、その「見て感じている私そのもの」をあるがままに目的も動機も分離もなく、

見ている私も、見られている私も、主体の私も客体としての私も全ての私がただ一つなる私として観照している

状態のことではないだろうか


分かり易く言えば「私が見ている」のではなくて「『見ている私』を観照している」のである

その時「見ている私」のことを観照している私とは、見られている私と分離していないのである、一つなのである


その時、「見るものは見られるものである」の状態、「観察者は観察されるものである」の次元に接近しているのではないだろうか



何かに成ろうとして藻掻き、必死に闘争して何かに到ろう、「実現しようとしているこの私」を観照するのである、私自身と分離せず

何かに到るために何かをする必要が有るとして、必死に努力している私を、私自身として受動的に分離せずに観照するのである

何かに到ろうとして、又は何かになろうとしてそれに接近しようとして苦行を行い、信じ、祈り、疑問と質問を繰り返す私

この分離している私を私自身と分離していない私として観照するのである

その時、その観照しているとき

何かに到る必要はあるのであろうか(到ろうとしている私とは観照している私ではない)

何かに到達する必要はあるのであろうか(到達を必要としている私とは観照している私ではない)

何かになろうと努力する必要は有るのであろうか(努力している私とは観照している私ではない)

その必死に藻掻き、努力している私は、これらの私を認識している私である(認識している私とは観照している私ではない)

私が藻掻き、努力し、足掻いている私である、その私を観照している私は「主体=客体」である、これが「在る私」ではないだろうか


そして、此処がスタート地点ではないだろうか

あるがままをあるがままに受容し、あるがままとしてあるがままで在るとき、そのとき

何もすることも必要がなく

何に到ることも必要がなく

何かを知る必要もなく、何をも理解する必要もない、知識や理解や知ることは分離の世界のことであるからである、

それらは真の私に属することではなく、マインドに属することであるからである

と教えられている














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