奇蹟を顕しても人々を虜にしない
円盤は奇蹟を顕しても人々を虜にしない。
この言葉は今から40年以上も前に、私がCBA(宇宙友好協会)なる団体のところで、
宇宙連合の長老の方々とコンタクトしたという松村氏を通じて与えられた人類への言葉であった。
宇宙の聖なる方々は円盤の飛翔を見せたとしても、そのことで地球の人々を虜にしない、と言う意味である。
その当時、私も高校生で、良く、今で言うUFOとのテレパシーコンタクトをしていたものである
「自分たちがごく近くまで接近できるのに、乗船できないのはどうしてか、
松村氏は乗船できるのに、何故私達は出来ないのか」と、
質問したことがあったが
その答えは
私達の肉体と内面の波動のレベルがあまりに低すぎて、
その円盤との波動があわずに乗船することが出来ない
と、そのような答えであったと思う。
それが間接的に何故、円盤は皇居前広場に着陸しないのか
との質問に答えることにもなっている
「円盤は奇蹟を顕しても人々を虜にしない」
からだ
彼ら、聖なる宇宙の方々は
私達を支配しようとしているのでない
私達を利用しようとしているのではない
私達から何かを奪い取り、搾取しようとしているのではない
もしそのようであるなら
きっと
とっくの昔に、私達を支配し、搾取し、利用したであろう
勿論宇宙の方々と言っても
色々とあり
何百、否、何億、何兆とある星からであるのだから
一概に言えないのは当然だが
少なくとも、当時の私達がコンタクトしていた宇宙の方々はそう言う方々であった
さてそのことに関してだが
翻って、その観点をこの現在の地球人類の宗教や神々の方に向けてみよう
現在、地球で良く散見する、いわゆる○○神なるものは
「奇蹟を顕して人々を虜にする」のではないだろうか
だから
私達を支配し、利用し、搾取する事で
それを行う方々?!も、
結局は同じように
支配され、利用され、搾取されるのではないか
とそのように思われる
何故なら私達は一体であるからである
一つであるからである、とおもう。
搾取する方・奇蹟を顕して人々を虜にする方は私自身でもある
とも思われる
私達に権威として現れる、その「ある存在、X・神」は、
私達の権威となることで、その「ある存在、X・神」自身も
結局はその権威なるものによって
人々を自縛するように
自分、自らもまた自縛されてしまうのではないだろうか
人々から自由を奪うことによって
自ら自身が
自由から遠ざかってしまう
人々を虜にすることで、自らが人々の虜になってしまう
そうなのではないだろうか
それにひきかえ
本物の聖なる存在は、そして(私達より)高次のレベルに到達した存在は必ずや私達を解放に導くことであろう
何故なら彼らは解放されているからである
だから私達を解放するのだ
だから私達を束縛しない・虜にしない。のだとそのように思う
では
本当のその聖なる存在、至聖なる方々、高次の次元の方々は
果たして「権威」「神」として私達に出現することがあるだろうか?ということだ
この未熟な二元性の私達に対象として出現することがあるのだろうか、ということだ
勲章を着けて顕れるであろうか、
神という名前の書いた勲章を着けて、私達の前に現れるだろうか
そして、それは、その出現は
私達を本当の意味で自由に導くだろうか
それとも
それによって私達は
私達が「個別的存在」である、という誤った認識に誘導されてしまうのではないだろうか
現在の私達にとって
私達の知覚は限定され
私達の認識は思考に限定されている
そのような
私達が見ることの出来ない盲人でしかない限り
そのようなのレベルに留まっている限り、それしかできないので
私達は勿論、本質を見ることが出来ない、
そして、本当の意味での現象も全体的に見ることが出来ない
そう言う低次レベルの私達の状態の中で
神なるものが出現し、貴方はこういう素晴らしい段階です、
こういうレベルに到達しました
貴方に恩寵を与えます
などと言うこと自体が
私達を分割し、私達を分離された個人的な存在であるという誤った認識に誘導してしまうのではないだろうか
さて
良く、上江洲義秀先生は私達のことを「私である貴方」と言う表現を使う
彼の目には私達は分離されていない「一つ」と見ているのだから、それは当然であろう
であるので
そのレベルに至った方々は
私達に個別感覚を与えてしまうところの
勲章を与えたり、
今現在の段階のレベルを本人に伝えて、私達の架空の自我を増長させるようなことはしないだろう
即ち
個人感覚・個別感覚・全体から分離した想像の人格を増長させ、増大させてしまうような事はしないだろう
勲位を与えること、
個人を表彰すること、
個人に等級を付け、
順位を与えること
霊的な階位を与えること、
霊的なノーベル賞を授与すること等は
より個人の自我を増長させるだけだ。
そのようなことは決して行うべきではないし、
本当の聖なる御方は行わないだろう。
事実とは私達のそのレベルを与えられるべき自我は観念にすぎない、
ということではないか
偽我は存在しない
と
そのように言われているではないか
なのに
本当には存在しないものである自我に対して何故そうするのか
何故、それを強調するのか
架空な、存在してもいないものに、
いわゆる偽我に対して………。
であるから
その本当のその聖なる存在は「奇蹟を顕しても人々を虜にしない」
であろうところから
絶対に
私達には権威としては、出現しないであろう
また権威を与えたりはしないであろう。
良く、上江洲義秀先生が言われるように、
祝福を与える存在は、外見では分からない、むしろ一番忌み嫌われるような姿で出現することが多い、
また、
「神は神であると決して言われることはない」
「私は貴方である」
そして
「私は私であるものであり、貴方である」
と
その方達は言われる
などの、そのようなことから推測して
現在、この地球に出現している多くの霊的権威たち
私達に権威として、至高なるもの、至聖なるものとして出現し
奇蹟を顕して人々を虜にしようとしてるかたは
私達から搾取しようとしている
私達を搾取しようとしている
そして、その結果
そのしようとしている
「その出現している存在」の方自体
それらの方も又逆に、搾取される結果に陥る
私達を利用することで、その彼らも利用される
私達を堕落させることで彼らも堕落する
いずれにしても権威として出現することは
私達を束縛し、堕落させる
私達を個別的な存在である、との錯覚に縛り付けてしまう
それにひきかえ
上江洲義秀先生に出現した至高なるかたがたは
決して名前を名乗らなかったという
何故なら私達は
名前を述べられることで、彼らを崇拝してしまい、
本当の崇拝されるべき内なる真我から焦点がずれてしまうからである
であるので
その聖なる存在、神とも言うべき方々は非二元性の中で出現され
「貴方の思うとおりの私です」と自らを名乗ったという
これこそ
私達に対して「奇蹟を顕しても人々を虜にしない」存在方の出現方法なのである
内と外に分離されていない、「見るもの」と「見られるもの」の分割のない
非分離性の中にのみ、その御方は出現される
「私自身」として
「私」として
真の神は決して「私は神である」と名乗り、そして数多くの奇蹟を顕しては、
私達を虜にするようなことはしないであろう
「私」はあなた自身として出現される
であるので
いわゆる私達を霊的に束縛し、飛翔させないようにしてしまい、
私達を個人存在であるとの錯覚に貶めるような方法
即ち対象としての「神」としては、絶対に出現されないだろう
宇宙のエルダーブラザーもそうなのであるから…。
真の内なる聖なるそれは
私達の病気を治し、
幸運をもたらすこと、
奇蹟を起こすこと、
救うことは数知れずに行われるであろう
しかし
御方は決して名乗ることはしないであろう、
その恩寵を与えたものは無名なるものであり、
その本人には決して知られることのないようにして、
人知れず確実にそっと行われるであろう
自らも自覚することなく、人に知らしめることもなく行われるだろう。
そのようにしてそれは本人には知られずに恩寵は与えられる
恩寵の送り手は、決して名前を明かすことはしない
本人には気がつかれることなく、
知られることなく、
本当の恩寵は注がれる
限りなく注がれる
これを逆に言えば
恩寵を与えると、本人に告げて、
その当事者である本人を束縛する存在は
決して
「本当の恩寵」を与えることはできない、
ということである
そのような恩寵は恩寵ではなく、霊力であり、
あるエネルギーであるに過ぎない
それは結局は私達を個人的存在であるとの束縛に、
錯覚に導くものである
「奇蹟を顕しても人々を虜にしない」ところの存在は
本人には決して分かることなく
恩寵を与える
そして、その結果
本人を個人であるとの錯覚から、その錯覚の束縛から解放させるようにプロセスは進んでいく
卵から白鳥が飛び出すように
私達には気づかれ事無く、その脱皮は進んでいく
と、そのように恩寵は
働くのだと上江洲義秀先生は言われる
だからといって
私達が神々や聖者や覚者にラベルや等級を付けられることではない
井戸の中の蛙に井戸の外の大空の鳥たちを
あれが上、あれのほうが進んでいる等と言えるだろうか
白鳥よりも鷲の方が、いや鷲より鷹の方が上だなどといえるだろうか
事実は、この現実であり
私達自身は井戸の中にいて一歩も外に出ることが出来ない幽閉の身なのである
実は何も知ることが出来ないのである
私達はマインドしかない
いや
実は私達とはマインドそのものなのである
私は考える、思考する
それでしかない
だから
私が思うに
この全てはお役目なのではないか
全てはその任務であるのではないか
善も悪もその任務であるのでないか
私達は結局は自分に合うところに引き寄せられるのである
であるから
神々に等級を付けたり、覚者にレベルを付けたり、真偽を判断することは
私達がその個別的・自我の認識に陥ってしまったことを示している
現在のレベルの私達には判断する、識別力がない、
それを誰が悟っている、誰それは神ではない
などと言われたところで
私自身が其処に到達していない限り
その知識は全く役に立つことはない
また、そのように覚者や神に対してレッテルを貼ること自体が
全くそうではないのに
そのように自分が認識できるという錯覚
自分が覚者達や神のレベルを云々することが出来るという錯覚と
恐るべき自我の高慢
全くの増上慢に陥る事、そのことこそが
それを云々することの結果でしかない
私達には覚者や神々を云々する資格はないのだ
またする事も出来ないのだ
それが現実が
マインドでは無理だ
この私達が持っている唯一の認識方法である、思考というマインドでは識別する能力が出来ない
そう言うことなのだ
何故ならそれは常に対象を分離して捉え、
時間という幻影の中、自他の分離の中でしか認識できず
全体を即時に認識することすらできないからだ
私達が今の、このマインドの束縛から解放され、気づきの世界に、非分離のレベルに参入したとき
その時こそ
井戸の中ではなく、大空から
全てが良くわかるであろう、
ハッキリと
しかし
その時
私達はその神々や、聖者達を、又は偽物達を
「自分」自身と分離していない、「私」自身であるとして認識し、
そして同時に現象界的にもあらゆる側面をもハッキリ
非分離性の中で知ることが出来るだろう
その姿を、全貌である全体を内なる中で認識するに違いない
しかし
其処に写るのは
その偽物も、自称覚者も、神と称するものも、
実は同じ私であり、同じ一つなるものであるに違いない
事だろう
今現在、「実相即現象」と
そのように上江洲義秀先生の目には写っている事だろう
上江洲義秀先生によく質問する事
良く聞かれること
盲目の私達が、識別能力のない私達が
問題にすること、それは
「誰が本物ですか」
「どの神が本当ですか」
「この聖者はどのレベルですか」
などの質問自体が
全くナンセンスに写っていることだろう…………。
本物は「奇蹟を顕しても人々を虜にしない」
本物は解放する、
私達を私達のプライドから、
私達を私達の個別的存在という錯覚から
そして外側に出現する、対象としての神からの解放を
「私」以外の神からの解放を
神は我が内に「わたし」として実在する
そのようにいわれているではないか
神は「私」である、と言われている
神は対象ではなく、貴方が私であるとき
その時
全てのあらゆるものに「私自身」を本当に実際に感じることが出来るとき
その愛こそが
その愛のみが
覚醒へのパスポートを手にしている、ことを可能にする
とそのように上江洲義秀先生はいつも言われる