自分を映すには静寂な鏡が必要

鏡とはなんの比喩であろうか
上江洲義秀先生の講話にも
その鏡を磨かねば
自分を映すことが出来ないと
度々言われている

その鏡があればこそ
自分を映すことが出来る
そしてそこに写った輝く真我を見ることが出来ると

自分を見るには鏡が必要であり
鏡がなければ自分を見ることが出来ない
その為には静寂なマインド、静寂な鏡が必要である

ニサルガダッタ・マハラジはいう

この場合の私とは勿論、真我のことである

静かな曇り無き鏡に自分を映し出しなさい、真我という愛である自分を映し出しなさいと言われる

静かな鏡とは何か
自分たる真我を映し出す鏡とは何か
静かなるマインドとは何か

鏡はいつも外を見ている
二元性である鏡の焦点は対象に固定されている
内界も外界と同じように対象化してしまう
鏡そのものが二元性であり
現象界という二元性に
二元性のために、この意識の座が
作り出されたのかも知れない
さて
この現在のこの意識であるこの特定の私の鏡には、
この特定の肉体、
たまたま久保栄治という名前を付けられたこの肉体が、写っている
そしてこの肉体の頭脳を経由した知覚と認識が鏡に映っている

この鏡は受胎を通じてこの肉体と繋がり、肉体に縛られて
現象界の内でも、物質界という時間と空間の制約が強い世界に入り
そしてその結果として
中継器である脳を通じてでしか知覚と認識が
その鏡には届かないようになってしまったのか

言うなれば、脳からの一方通行の二元性・分離性の中でしか知覚と認識は出来ない
と、そのような状況にその鏡は置かれたのか

その意識の座の構造は、常に分離性で対象を捉えていて
鏡の如くであるので
鏡は鏡自身は見ることが出来ない構造になっているのか

現在の私には
鏡に写るものは
脳を経由したものしか
認識できないし、知覚できない
そしてその鏡は当然に肉体を自分であると錯覚して
名前と実体を伴った、この肉体から
個人の特定の人格を作り出していく


鏡は各種の条件付けられている脳を経由して
肉体との同一視という錯覚で作り出された人格を
自分そのものと信じ込んでしまう

そう言うわけで
鏡には
その肉体の影であるところの自我である人格が写っている
この鏡はその肉体の影である自我を(人格を)自分だと思ってしまっている

その鏡と肉体の頭脳は
この物質界にいる限りは鏡には太いパイプで経由されているので
脳の機能が改善されて、頭脳がより精妙な知覚と認識を、異なる次元を認識することができなければ
この鏡にはより精妙なる知覚と認識は届かないのか

それとも
肉体の頭脳ではなくてその鏡自身の静けさが、その鏡のレベルが向上することができれば
それに応じて、そのレベルの智慧と愛が流れいるのであろうか

私たちは通常この鏡が肉体を去ったあと
肉体は崩壊し
その鏡によって作られた人格は、鏡から離れて休止状態となる、ワサナである五蘊である
そして
次の転生に際して
鏡はこの人生を顧みて次の人生へと
更なる歩みを決意するのだが
この鏡そのものを磨かぬ限りは
またこの苦界に戻されてしまうのだ


これが我々の現状だ

現在の私の鏡の表面にはいつも
想念が、思考が、感情が、流れている、ざわついている、
そしてそれを自分の想念、自分の思考、自分の感情だと思って錯覚している

鏡そのものが自分の意識そのものの座であるのに
その意識の座に流れてきている想念や感情を自分のものと錯覚している
数多くの想念が、思考が、感情がこの空間に飛び交っているのは
あたかもテレビやラジオや携帯や無数の電波や磁波がこの空間に
びっちりと埋められておりその中から自分の受信器が同じ周波数のものを
波長があって同調しているに似ている

そのように
鏡の表面は、いつもざわついており外部からの想念や感情に被われている

この状態ではとても真実の自己の顔を見ることが出来ない、
真我の顔を見ることは出来ない、
鏡は完全に静寂で有ることが必要だ
これでは
真我の光を映すことも、
反射することも出来ない、
放射することも出来ない

鏡自身は真我ではない
真我を反射するものだと言われている

鏡自身は真の私ではない、真の私を映すものだ

真我を見るためには、感じるためには、在る事が出来るためには
鏡が必要だと言われる

それも曇り無き磨かれた鏡が

そのような鏡にこそ真我を、私を見ることが出来ると、言われる

果たしてその鏡とは何か
静寂で静まった鏡とは何か
曇り無き鏡とは何か

そもそも鏡とは何か

この鏡の比喩は覚者の方々がよく使われている
神社にも本体として、曇り無き鏡がまつられている

がしかし鏡が真我ではない、真我を映すものである

クレア祐子さんの写真に写されているものも
この鏡ではないかと私は推測している

この鏡に観照者の設計図が組み込まれているのではないか

この鏡が曇り無く透き通るためには、条件付けが解除されなければならない

その為には、その条件付けが見られる必要があるのではないのか

この鏡が肉体と同一化し自分を肉体だと思ったり

肉体の影であるところの自我である人格を
間違って同一化して自分だと思ったりしているところの意識の本体ではないのか

そしてこの鏡が間違って
自分である鏡を肉体と同一化してして作り出した人格がワサナではないのか、
それは肉体の消滅後、しばらくして肉体と同じようにこの鏡から離れて、
次回の転生の時に新たな肉体に引き寄せられるのではないか

そのようなことから
従って記憶には、記憶とは多くの種類があると思われる

①頭脳の記憶:肉体の頭脳にも断片的に記憶はある

②ワサナの記憶:肉体と同一視して作られた想念形態・想念の凝集体である自我、
即ち人格であるワサナの中にも断片的にある

③責任を取る主体(鏡)の記憶:真の私を映し出す意識の座である「鏡」にはその記憶がある
これが輪廻転生の主体である、個別性、二元性である私である

④全てを見ている観照者の記憶:静寂で磨かれた鏡によって映し出される、本当の私である観照者、
設計図を書いた真我の中にこそ最も正しく全てが完全に記録されている
それこそ私たちの幾輪廻の全ての全てを愛情を持って見つめている、本当の私
貴方が私である私、全てと同じで、全体性の私、世界である私である

そういうことではないのだろうか

クレア祐子さんの写真に映し出されている

あの光は③の鏡という存在ではないかと私には推測している

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