純粋なエゴ
「純粋なるエゴ、それは真我と同じようなものです」・・・とラマナ・マハリシは言っている
純粋なるエゴというマインドの中での「マインドの私」も、この時間軸というマインドの中で真我と同じようなものになる
可能性があると言うことだ
質問者:私は本当の「私」を見いだし、いつも自然にそれと接触を保っています。
ラマナ・マハリシ:
あなたは個人的な「私」を放棄するだけで充分で、本当の「私」を獲得するために努力する必要は有
りません。
あなたと真我との間に何らかのそのような相違があることを考えないようにしなさい。
そしてあなた自身をかれに引き渡し、あなた自身をかれに溶け込ませなさい。そこでは何らの疑念も
無いはずです。
あなたは神を欺くことはできないのですから。
質問者:どのようにして恐れを取り除くことが出来ますか
ラマナ・マハリシ:
恐れとは何でしょうか。それはひとつの想念にすぎません。真我の他に何もないときには、恐れる必要は
ありません。
誰がそれ以外の何ものかを見るのでしょうか。エゴがまず生じて、ひとつの対象を見ます。
もしエゴが存在しなければ、真我だけが存在します。
そして第二のものはありえません。内部に源を発見したとき、何らの疑いも恐れもないでしょう。
そしてエゴの廻りに集まっているその他の全ての想念はエゴと共に消え失せるでしょう。
弱さあるいは強さは、心の中にあります。真我は心の全てを超えています。
質問者:どのようにして私は成長できますか。
ラマナ・マハリシ:
何故エゴの除去が進むのでしょうか。それがまさに−興味の中心として−必要とされるものです。
偽りのエゴは対象と関係させられており、主体だけが実在です。
世界は心によって映し出された光の中で見られます。
月は太陽の光の反射によって輝きます。太陽が沈んだとき、月はものを見るのに役立ちますが太陽が
昇るとき、月はそれが見えるにも関わらず誰も月を必要とはしません。
そのことは、心とハートについても当て嵌まります。心は対象を見るのに使われます。
真我はあなたがそれを探し求めなくても存在します。誤った同一視が止むと、永遠に存在する真我が
現れます。これが真我の実現と呼ばれます。空白は心の探究の悪い結果です。
心はその存在を取り除かれねばなりません。
考える人は誰か、探し求める人は誰かを知りなさい。
考える人、探求する人としてとどまるとき、全ての想念は消え去るでしょう。
そのエゴは想念を一掃した純粋なエゴです。
それは真我と同じものです。
以上「不滅の意識」より
ここで私と言う自覚意識を持っている主体というものについてラマナ・マハリシの教えに従って
私なりに整理したい
T:自動人形・ロボット・映像としての私
脳の条件付けに従って生み出された結果である行為、思考、感情、感覚、知覚、肉体、出来事、
運命、カルマ、はこの脳の条件付けの結果であり、それは脳に起こっている事である
それらは自動的に意識のスクリーン上に投影されているもので
それらは条件付けられている脳を経由して発生している起こったこと、プログラムの結果である
通常の脳で意識されており、行為されており、知覚され、思考されている結果そのものであり、
脳の条件付けとDNAプログラムにしたがって条件反応している思考と行為であり、肉体の行為である
そして肉体とカルマと出来事が既に起こっている過去として脳内映像の世界に登場している
この映像こそ思考と行為と知覚である、そしてこの映像の記憶が集積しUの自己・人格を生み出す
この思考そのもの、肉体そのものが私と言う意識を持っている
思考は物質であり意識でもある
U:人格・個人・ワサナ・サムスカーラとしての私
T:であるところのDNAでありプログラムというものが、脳を通じて行為し思考し知覚し出来事が起こっている、
それらが脳内に記憶として残存し、その記憶それ自体が主体意識を持ち始めて人格・個人となった私である
(その記憶体は死後、再誕時に現在のパーソナリティーである精妙体を離れて一部はワサナとなり、上位の
記憶はコーザル体へと吸収されサムスカーラとなって、再誕される次回の現在のパーソナリティーへと引き
継がれていくが下位の記憶はワサナとなって次回の現在のパーソナリティーが転生する肉体に、誕生時に
引き寄せられていく
このワサナの想念が潜在意識の無意識層となって巨大な想念帯を形成していると思われる)
この想念で形成されている自己のことを通常は自我と言っている、従ってこの自我は巨大な無意識層に
繋がっている、その一部分でもある
この記憶の私は観察者、体験者等とも言われており、起こっている行為や思考に対して自身である記憶から
条件付けに従って反応することしかできない思考の記憶としての私であり、その起こっている行為と思考を
自分が選択し、自由意志で思考して、行為していると錯覚して私である
起こっている行為と思考に対して反省したり、努力したり、非難したり、逃避したりして想念形態とエレメンタル
を生み出している私であり、自分が行為していると思っている行為者ともいわれている
通常はこのUの私は記憶としてVの私に重ねられているために同一視されているが、Vの私は魂からの
反映であるに対してUの私はそのVの私にぴったりと重ね併せられている記憶からの反応である
それに対してVの私とは真の私からの反映であり形成過程にある意識体である
V:現在のパーソナリティーとしての私(純粋なるエゴになる可能性のある私)
この現在の私、現在のパーソナリティーとは、真我からの魂である「非思考・非対象の私」が、マインドである
時空間と自他の分離界に接触して発生している魂からの想念の凝縮体であり、マインドであるが
幾多の転生を通じて徐々にサイコノエティック体を原型に従って再形成し始め、多くのイニシエーションを経て
最終的には純粋なるエゴにまで到ることが出来ると言われているところの現在のパーソナリティーである。
このエゴがラマナ・マハリシの言われるように
「考える人、探求する人としてとどまるとき、全ての想念は消え去るでしょう。
そのエゴは想念を一掃した純粋なエゴです。
それは真我と同じものです。」と言われている純粋なるエゴ、現在のパーソナリティーであり
魂に同化されるまでに進化することができる、マインド界における可能性としての自我である
この純粋なるエゴは水の洗礼と火の洗礼を経て、自らを磔にして復活し魂・目撃者にへと帰還することの
出来る可能性を持っているところの、想念を一掃した純粋なるエゴである
このVまでの私が転生しているのが三界の次元であり、その転生している私は物質界、幽界、霊界などと
言われている次元でそれぞれの身体を纏う意識体であり、多くのイニシエーションを得て進化している
意識である私・自我である、これが現在のパーソナリティーである
この私は如何に進化しても魂に吸収同化されるまでは、対象というものを認識してしまう
通常はこの現在のパーソナリティー・サイコノエティック体のことを魂とよんでいるが、実際の魂は次のWの
私である
そしてこの現在のパーソナリティーの最大の特徴は自分は真の私とは別で、真我ではないと思いこむことであり
実際には真我しかおらず、現在のパーソナリティーも人格もひとつである真我であるにも関わらず、自分は真我
ではない自分は真我とは違うと思い込んでいることである
W:魂としての私、目撃者・観照者としての私、永遠のパーソナリティーとしての私
この私はスクリーンそれ自体としての私であり、非思考、非対象の私であり、Vの私に沈黙が起きたとき
Vの私に誕生する沈黙の私だと言われている(実際には永遠のパーソナリティー・魂と現在のパーソナリティー
と肉体が整合し、繋がった状態だと思われる)
ニサルガダッタ・マハラジやラマナ・マハリシなどによって言われている「I AM」の私であり
一般的な意味の霊魂ではなくて、聖なる魂そのものである(若しくは聖なる霊そのものである)
この私とは現在のパーソナリティーをいつも見守っている自由なる私であると言われている
この私は真我の現象界での接点でもあり、この私がスクリーン上の映像を見ることによってVの私が
現象界に反映され想念体(現在のパーソナリティー)として生まれたと言われている
この私自身は神聖なる叡智と愛に結びついており幾多の輪廻を重ねている現在のパーソナリティーを
暖かく見守っている私でもあり内側と外側に分離してはいない私と言われている
この私とは個人や人格や他と分離した思考やマインドの私ではなくニサルガダッタ・マハラジが言う
「苦しむあなたを内側から見ている私は、見られている苦しむあなたである」と言明している非二元の私であり
この現在のパーソナリティーの奥にいて、この現在のパーソナリティーの私の一番そばにいる私でもある
知覚の対象でもなく、知覚の主体でもなく。経験の対象でもなく、経験の主体でもなく。認識の対象でも
なく認識の主体でもない、故に「在る」「見る」と表現されている私だと
このWの私は転生しておらず、時空間を超えている次元ではあるけれども、更に根源界である原因界や
原型界と呼ばれている高次現象界の私、即ち「真の私」ではないと言われている
この私は意識を超え思考を超えており、熟睡時にも覚醒している「気づき」であり意識と思考を支えている
X:真の私
自由で在る次元・領域であり、自我が、想念が、思考がマインドが時間や空間が全く存在していない領域・次元
全てが全ての中に在り、全ての中に私が在り、全てが全ての中に在ると言われている、非分離、非二元、全体
の私
最早主体や対象の私ではなく、私が全く存在してあらず、全ては全てであり、全体が全体である私
生まれる事もなく死ぬこともない私であり
ラマナ・マハリシのいう何事も起こっていないと言われる次元の意識である
言葉を完全に超越している次元であり、「今・此処・あるがまま」と称されている神聖なる宇宙意識の私である
クリシュナムルティーやラマナ・マハリシやニサルガダッタ・マハラジはここから魂である永遠のパーソ
ナリティー・目撃者に向かって内側から、あるときは言葉を用い、またある時は言葉無しに語りかけて
おられる
本当の意味での「神の探求」が開始されるのはこの次元からであり
この次元以前の自我が完全に死滅していない状態での神の探求とはマインド次元内での「自分を神だと思っ
ている」宇宙意識の「想念体」とのコンタクトに繋がってしまう危険性を孕んでいる
Y:絶対なる存在
サット・チット・アーナンダの三つ組みと言われ、全くの非顕現領域であり
クリシュナムルティーの言われるように「これなくしてはあらゆる全宇宙は一瞬も存在することが
出来ない」といわれる究極の究極である