思考者は自我、行為者・出来事は根源・源泉、観客は観照者
私のバレエの先輩であり、日本バレエ協会の会長である薄井憲二先生は、
バレエの歴史の第一人者であるが、先日、先生から面白い話を聞いたので紹介したい
バレエの天才で、精神世界でも有名なニジンスキーを生み出した、稀代のバレエのオーガナイザーであったディアギレフはニジンスキーを失い、ロシアに行きその後釜に、レオニード・マシーンに的を絞り、彼にバレエ団に振付者になってくれるように、依頼したという、
マシーンは大変なことでもあるので、一晩中考えに考えて、ディアギレフに断る決心をして、翌朝に、そのことを告げようと彼が宿泊しているホテルに行き、その旨を言おうとしたとき、口をついて出て来た言葉は「私は、その仕事を引き受けました」であったという。
後で、そのマシーンの回顧録に書いてあるらしいのだが、
一番驚いたのは当のご本人であるマシーンだったらしい。
何しろことわるつもりで、ディアギレフに会って、口をついて出て来た言葉が「はいお引き受けしします」では180度全くの反対の言葉であった。
私は恩師の薄井憲二先生のこのお話しをお伺いして、非常にこの表題である
「思考者は自我、行為者は根源・源泉、観客は観照者」を具体的に、且つ端的に示している、出来事として納得をしてしまった
良くこの「行為者は自我ではない」はニサルガダッタ・マハラジやラマナ・マハルシそしてクリシュナムルティーもカルキもこの点「私達は行為者ではない」ことを教えて下さっている。
では私達の肉体を支え、肉体をいかしめ、行為させ、私達に起きている出来事を行っているものは私達ではないとしたら?!……‥。
ここから先は、慎重に思考を働かせていきたい、
今、私達は私達の極わずかの認識力と条件付けられた乏しい人類の理解力で、
マインドを遙かに超えた聖なる領域に触れようとしている。
この現象界を支え、そして時間を生み出して、
完璧、完全に運営されている根源の領域に、土足で乗り入れるようなことは避けたい。
ここから先は私達が、内なる意識へと、内なる観照者へとたどり着き、自分自身が脱皮され、
蛹から蝶へと変身し、大空を舞うことが出来たときに、自ずと分かる事だと思われる。
しかしあえて、この条件付けられている頭脳と、プロムラミングされているこの知性、理性、思考のレベルで、この大問題に接近できる限界まで、接近していきたい。
しかしそれ以上の本当の理解はこの条件付けられた思考や意識では認識できない「非二元性の未知なる領域」であることを、最初に認識しておくべきだとおもう。
それはこの条件付けられた地球人類の、現在の頭脳からの思考では、未知なるもので有り続けることだろう。
私達の肉体を生かし、支え、
肉体と、それを生かすエーテル複体、そしてサイキック体、メンタル体、そして原因体、
さらにそれらを連携させている連結器(チャクラ)を管理し、
そしてそれらを生かしめている、五つの神体、これらは私達の乗っている船であり、
私達はそれを支えておられる聖なる方々、そしてそのシステムによって、この物質界に生活をさせて頂いている、
その私達とは勿論、真我によって、
「私」によって生み出された、最初の想念凝縮物即ち概念であるところの想念の自我である
この人格であり、想念である自我が、この輪廻システムを運営するための必要な条件として、真我に因って生み出され、支えられているのではないだろうか
そして、この現象界を維持し支えている、その聖なる領域の力が、
私達の思考や感情や物事の結果と行為と出来事を引き起こし、導いて下さっている。
とそのように知性的な範囲内だけであるけど、私には推測できる
行為を起こしている者、即ち行為者は、
私という「この条件付けの結果の思考や感情や記憶である自我」ではないと言われている、
それは自我には関係なく、起きる、発生する、実現する。
やってくる。
思考者である自我は、この肉体やその肉体の維持運営、そして身の回りに起きていること、起こること、
内面や外面で起きていること、出来事に関与していないと多くの覚者は口を揃えて言われる。
思考は外部からやってくる
行為は外部からやってくる
出来事は外部からやってくる
そして
自我も外部からやってくる思考・マインドが生み出した結果である
それは条件づけられた頭脳により、
また条件付けられた受胎時からの設計図と言う条件付けにより、
観照者を被っている繰り越された記憶やその想念の凝縮物により
その結果に発生する思考や感情や知覚が「想念である自我」という
「偽の主体」を生み出す、
それが人格であり、
ワサナであり
現在の私だと思われる
そしてそれが輪廻のサイクルを構成する肉体を含む多くの精妙体と
その身体を維持するエネルギーシステムにより、
そのシステムと共同してこの輪廻のサイクルを支えているのだとおもう
舞台の上の演劇を支えるために、筋書きである台本と役者と観客が必要なように
私達は観客であると同時に筋書き通りに台本通りに演じる役者でもある
そして、舞台ではその書かれた台本通りに物語は進行していく
一糸乱れずに
だから本当はその思考者である自我も、
外部からやってきたマインド思考と内部の条件付けの結果生じた窄少された意識に過ぎない
観念に過ぎない
この自我である私とは、
条件付けられた頭脳と、
受胎時に埋め込まれた設計図、
そして其処にやってきた外部からの思考により
発生した想念であり思考であり感情であり、知覚であり、そしてその凝縮物である人格・ワサナである。
即ちこの自我である私とは、外部からのマインドの結果であり、
単なる条件付けの結果の思考である、とそのように思える。
それなのに
この起きていることを、間違って解釈し、
私が行為している、
私が思考していると錯覚し、
その結果行為者という観念や主体という自我・人格を生みだし、
この輪廻のサイクルを推進しているのは、
外部からやってきている思考によって創作された私達の自我であり、
偽の思考者・
偽の行為者・
偽の主体なのだと思う
あのレオニードマシーンにも明らかなように、思考者である自我が断るために一晩中、考え、呻吟懊悩しても、結果を動かすことは出来ない、結果に影響を与えることは出来なかったのだ。
この現象界の聖なる秩序に、聖なる恩寵と出来事を自分がやっていると間違って解釈し、ねじ曲げて自分が出来事を引き起こしているように考えているのは、外部からやってきたマインドが作り出した自我の想像だ
それはただ単にそう思い、信じているに過ぎない。
自我とはマインドによって生み出された結果だと思う
それをあたかも自我が行為者であるように思わせ、
主体が自分であるかのように思わせ見せているのは
マインドであり、
私達の自我の責任ではない。
自我には行為と思考の責任はない
何故なら私達の自我自身が単なる結果に過ぎないのだから
私達が意識に目覚めて、条件付けから一部だけでも開放され、蛹から蝶へと変身されたとき、
この現象界自身もきっと変容し、その聖なる姿を露わにするに違いない。
現象界は私達の覚醒により、その本来の実相を露わにする、とそのように覚者は述べておられる。