上からの道(真我から拡大の道)と上へ引き上げの道(真我からの道)
仏教には慈悲の道と般若の道が、車の両輪のように備わっている
同じように神聖(真正)のキリスト教には慈悲・救済の道と般若・智慧の道がある
それが、言葉を替えて言うと、一方は真我からの道・慈悲の働きであり、そしてもう片方が真我へと引き上げる道・般若の智慧の道である
これは、一つである真我の働きであるものの傾向の働きでもあり、敢えて言えばキリストが愛という慈悲の道であり、神からの拡大の道であるのに対して、仏陀は智慧であり真我へと覚醒に繋がる般若の色合いがより濃い様に感じられる。
本来は全く同一であり、おなじ究極である真我であるが、
真我へと引き上げる道が強調されれば、マインドの迷妄を照見する立場から、覚醒の事が強調されるに対して、
真我からの拡大の道は、より絶対者である神への愛の言及が多くなり、真我から派生した現象界の救済の事が強調されるのであると思われる。
その傾向は覚醒した聖人の場合にも見られることであり、ラマナ・マハリシやクリシュナムルティーやニサルガダッタ・マハラジなどはどちらかと言えば真我覚醒の道であり、クリヤヨガの導師や上江洲義秀先生の立場は真我からの現象界への愛を強調した道であるように思える。
それが上江洲義秀先生の講話にも見られるように、上江洲義秀先生はより愛の色彩が強く真我を説明しており、非分離性であり非二元性である真我を強調していても、同時にこの現象界への救済の働きも、行われている事実にそれが証明されている。
一方では、ラマナ・マハリシやニサルガダッタ・マハラジ・クリシュナムルティーという方々にとっては、より智慧と般若の傾向が顕著である故に、救済すべき相手である、仮の姿である現象世界という客体界はこの仮の主体である私と同様に存在していない、と言う言明になり
救済と言うことすらも、時間の範疇の事であることに入ってしまうように感じられることもあるが、これは、覚者たちによる傾向の故であるように思われる。
上江洲義秀先生達にとっては敢えて、この現象世界という、仮象の時間界の中に入って、迷える人類の救済に向かうのも、この現象界を支えている絶対者の愛の故であり、深き慈悲の故であり、決してこの慈悲の傾向が強い覚者が真我の道ではないわけではない、のである。
これがマクドナルドベインではハッキリと表現されており、
彼の著作である「キリストのヨーガ」ではキリストの般若・智慧が強調され、この中では虚偽を虚偽と見ることに力点が置かれいる一方で、
同じ彼の著作である「心身の神癒」では、キリストの愛と慈悲がより強調されているといった案配である。
これは現在のこの転換点に至った人類の各人に於いても、当てはまることであり、
より般若と智慧の傾向が強い人と、
愛であり慈悲である傾向が強く、マインドということの理解をあまり経ないで、愛の理解と実践の方に力点が置かれている人がいることは、
決して双方にとっても非難や疑義を挟むことではなくお互いに理解しておかなければならないことであるように思われる。
それらは同じ一つである真我の側面であるように思われる。