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自己観察のためには

クリシュナムルティーは「あるがままをあるがままに見よ」と言われる
また

自己観察をいつも行いなさいと言われている

しかし

ここでクリシュナムルティーが言うところの「見る」とは、私たち人類の「見る」ではない

クリシュナムルティーが言うところの「見る」とは、「見るものなし」で、であり「観察者なし」で、である。

「見るもの」又は「観察者」とはエゴのことであり、思考であり、即ち「見る」とはマインドなしでである

クリシュナムルティーの独特の使い回しである「見るものなし」で見る、若しくは「観察者なし」で見るとは、思考とかマ

インドという

その主客の分離なしで見ると言うことであり、即ち無思考・非対象の目で見る事である

これは全くラマナ・マハリシの言う「無思考」「非対象」で見ること、又は「無思考」「非対象」で在る事と同じである。「在る」

「見る」は同じ事の側面であるからである。

であるので、クリシュナムルティーの「あるがままをあるがままに見よ」又は「いつも自己観察しなさい」とは、

畢竟、ラマナ・マハリシの「非対象」「無思考」で見ること即ち「私は誰か」での「真の私」へと常に注視していること、目を

向けていることに他ならない



クリシュナムルティーがたの自己観察、自己想起「あるがままをあるがままに見る」為には

まず、観察する私なき「目」という、無思考・非対象の「目」を前提としているのだ

(これを第三の目と言っても良いが)(クリシュナムルティーは始めから思考がなく無思考の状態であったという)

これはけれども、現在の私達であるこの「人格である結果の私」にはその眼がなく(開眼しておらず)従って見る事は出来ない

目と言うものを持っていない、この「人格である結果の私」には自己観察や自我観察も「あるがまま」も見る事は出来ないのだ

(何故なら、この私は視床下部にと結合しており、そこに投影されている映像しか認識して見ることが出来ず、

【脳が認識する映像しか見れず】、本当の「マインドによって汚染されていないあるがまま」とは決して見ることは出来な

いからである)

そして、この状態にも関わらず「見よう、見よう」として努力している私とは、「人格である結果の私」であり、見る事の出来

る私ではない。見る事が出来る私とは「既に在る真の私」である。

あるままを見る事の出来る私、自己観察できる私、「既に在る私」とは「人格である結果の私」にとっては未知なる私では

あっても、真の私にとっては私自身「I AM」である

(だからこれを「未知なる私」と言うのは、あくまでエゴにとっての未知なるものであり、既に真の私が顕現しかかっている

場合は「未知なる私」ではなく私自身「I AM」である)

しかし通常は「人格である結果の私」にとっては「目」というそれ自体がないのであるから見る事は不可能であり、にもか

かわらず、自分が見ていると思ってああでもない、こうでもないと思考しているのは「人格である結果の私」である。

通常では、この「人格である結果の私」は自己観察も含めて見る事は一切出来ないのである、目がないからである

そもそもこの「人格である結果の私」は下垂体を通じて視床下部に投影された映像と一体化しているだけであり

そこの視床下部に投影された、自我や、行為や、思考や、想念や、感情や、感覚や、知覚や、体験や、認識や、肉体や、

運命や、出来事や、社会や、家族や、世界という投影された映像と同一化しているだけに過ぎないのではないか?

全てはこの頭脳内の視床下部にて起きていることであり、それに対して「人格である結果の私」自我が自己同一化して

私が為していると思っているだけではないのか

「人格である結果の私」自我は何かをしているのであろうか、なにかをすることが出来るのであろうか?

それとも「人格である結果の私」自身がマインドのその映像の記憶であり、そのマインド自身であるのに過ぎないのではないだろうか

その記憶の特徴とは見るものと見られるものの分離、主体と客体の分離であり、恐怖であり、葛藤であり、何かに成ろう

とすること、到ろうとすることであり、過去と未来と現在という時間である。

従ってこの「人格である結果の私」(目もなく見る事も出来ないもの)は無思考・非対象である私ではない

「人格である結果の私」とは肉体と同一化しており、生まれて死ぬと思っているわたしである

「人格である結果の私」とは視床下部の映像と一体化しており、自分が行為していると思っている者である

「人格である結果の私」とは即ち、この現在のエゴである、この私である

肉体や思考や感情や出来事や運命や行為は頭脳内での映像であり肉体も頭脳も「人格である結果の私」のものではない

「人格である結果の私」とはこの映像の記憶であり、その記憶の集合体である、これは気づきと言われる真の私である

非対象・無思考の私ではない

感覚も肉体も頭脳も知覚も感情も思考も認識も行為も出来事も欲望も願望も「人格である結果の私」が視床下部の映像

と同一化しているものであり、スクリーンに起こっているものであり、マインドという分離の映像である


「人格である結果の私」とは記憶であり、その記憶の中身はマインドであり時間と恐怖と不安、そして自他の分離・分割で

ある。これがマインドである記憶の私の中身である

このマインドの記憶であるところのものが、それぞれ個人個人が私は自己であり、個別の存在であり、私が行為している

のだ思い込んでいるのだ

しかし、このマインドである「人格である結果の私」とは見る事も出来ず、聞くことも出来ず、生きてもいないのだ、と思わ

れる。そうであるので、見る事は全てが分離しており、聞くことも全てが自他の分離であり、生きることも恐怖と不安でし

かない葛藤でしかない

本来は見る事、聞くこと、生きることとは、見るものは見られるものであり、聞くものは聞かれる者であり、生きる者は全

一体である、それこそが非対象・無思考である真の私である、と言われている

従ってこの「人格である結果の私」は真の私ではなく記憶にしか過ぎない、記憶は死んでおり生きている魂の真の私ではない

この思考であり、マインド自身であり、概念である私は私では無く、起こっている結果だとすると、


ではこのことに気がついている私とは誰か?

マインドの私とは、即ちそれは私ではないと云っている私とは誰か

私とは何処にいるのか、真の私は何処にいるのか。

このマインドの私は私ではないとハッキリ見ることができている私が私である

これを見ている私こそが魂の私である

この魂の私は

「人格である結果の私」は見る事が出来ず、見ていないことをハッキリと見ている私であり

「人格である結果の私」とは概念に過ぎないことをハッキリと見ている私であり

「人格である結果の私」とは行為していないことをハッキリと見ている私であり

「人格である結果の私」とは記憶に過ぎないことをハッキリと見ている私であり

「人格である結果の私」が認識するものはマインドの分離の映像であり、この認識は真の私の認識ではない事をハッキリ

と見ている私である

「人格である結果の私」が知覚するものはマインドの分離の知覚であり、この知覚は真の私の知覚ではない事をハッキリ

と見ている私である

「人格である結果の私」が体験するものはマインドの分離の体験であり、この体験は真の私の体験ではない事をハッキリ

と見ている私である

そしてこれを見ている魂の奥に、真の私が存在している

それこそが無思考・非対象である真の私である

その無思考・非対象の真の私は「今」「此処」「あるがまま」に在ると言われている

魂の私の一番そばにいるのだという

だからこそ、私は全力を尽くして、全てを尽くしてこの無思考・非対象の真の私を凝視しなければならないのだ

私・魂は私・真の私を注視し、向かわなければならないのだ

真の私・真我のみを想い、見続けることが、そしてそれから目をそらさないことがワークである



それこそが「私は誰か」の道の始まりであり、「自己観察」「あるがままをあるがままにみる」事を生きることの道の始まり

であるとわたしには思える