求道者がエゴだ、神を求めているものが自我だ



ラメッシは言う「求道者がエゴそのもの」である、クリシュナムルティーはいう「神を求めること」を止めなさいと

これは奇異なことに聞こえるかもしれない

しかしここで覚者達の言うその求道者・真理探究者とは

自我に騙されている自我であり、それは自己欺瞞の状態であり、物質の意識に過ぎないのではないか

求めると言うこと自体が「あるがままではないこと、それそのものではないこと」の状態であることを示していると

また求めると言うことで、

自我が自分・自我自身の満足と、充足を求めている・・・・・という自我の状態であることを明示している

真の私であるものとは、決して求めることはしないのだと教えられている、与えることしかしないと


神を求めているものはエゴであると、

真理探究者は自我であると、

道を求めているものとは条件付けられている質料の意識だと、この質料の条件反射だと

この条件反射の意識なるものは神を知ることも、真理を知ることもないのに自分の欲望に真理とか神とかいう名前を

付けているだけのことだ



これを受け入れるのは抵抗があることだろうが、その抵抗感自体が自我という記憶であるものの質料の意識ではないか


だからクリシュナムルティーは神を求めることを止めて、このあるがままを思考無しに見よと言われるのではないだろうか

この「あるがままをあるがままに見る」という方向性からのみ・・・

沈黙への、そして未知なる実在への扉が開かれる可能性が有ると言っている、

「神を求める」「求道し、真我を探求する」という自我の方向性が間違っているのだ
         (と言ってもこの間違いが分かるためには、自我が求道するということで成長しなければならないのだが・・)

この間違っている方向性であるものとは、真理探究、真我の求道であり、神の探求である

それを引き起こしているのが記憶という質料(自我)であるものの意識ではないだろうか



ということであるけど

この「求道者こそが自我である」との指摘に反発しておられることであろう

その反発すると言うこと、それは頭脳を経由した記憶であるものの当然の反応でもあり、思考の自己欺瞞の状態だからだ



この頭脳を経由したマインドの記憶であるものとは物質の反応である、この反応の意識である

それはより正確に言えば、頭脳を経由したマインドである記憶であり、この記憶の精妙なる物質・質料の持っている意識であって

その意識とはこの質料のそのものの意識であり、決して空間の意識・気づきではない

気づきとは空間そのものの意識であるに反して、この私達の意識とは非常に限定された質料の意識であると、いや意識で

はなくて思考である、と・・・

この質料という物質の意識が自己感覚であり、自と他の分離感であり、認識と知覚だ

それは対象を自分以外のものとして認識しているところの所謂、主体と呼ばれているところのものだ、

これはしかし決して主体ではないのだが(空間こそが主体であるから)言葉がないので主体と呼ばれ

ているに過ぎない

この対象というものを認識し、知覚し、体験しているということで、

この主体とは単なる思考であり、記憶という質料の反応であることを示している



もし空間の意識であるなら「見るものは見られるものである」であることだろうし、

思考はそこにはなく、対象もなく、見る者と見られるものの分離対立

主体と客体・対象という二元の分離はないことであろうからだといわれている

そこには絶対なる沈黙と静寂があると教えられている・・・


またこの自我という頭脳の記憶である物質(質料)の意識の特長は

言葉を使用して自他の分離を認識し、知覚していることだ、

この言葉とか言語と言われるものこそが空間から生じてきている二元の状態・分離の状態であるマインドの特徴であり

「それそのもの」であることでは決してない「指示代名詞」に過ぎないものである


私達がこの言葉を媒体にしていることで、この私達とはそれは未知なるもの、空間そのものの意識ではなく、

「頭脳」という記憶にしか過ぎないことをハッキリと明示している、

私達とは質料の反応なのである、だから言葉でしか通じないのである


だから言葉でコミュニケーションしたり、言語を媒体にしているこの意識とは決して気づきという空間の意識ではなく

頭脳である物質の意識に過ぎないと言うことであり、次元の低いものであり、仮象のものであるということだ


同じように

自己感覚や私と言う自己意識が有り、対象を認識し客体を知覚している主体こそが、それそのものが分離して

いる状態であり、その意識とは気づきではなくて頭脳の物質自体の意識でしかないことを如実に示している



思ったり、感じたり、考えたりとは、この気づきではない頭脳の記憶である作用であり

それが思考が感じ、考え、思うのである



その記憶である物質が思考し、感じ、知覚し、思うのだ・・・

私は神を求めている、私は瞑想している、私は真我実現しようとしている、私は進歩している、私は努力している・・・と

けれども、この自己欺瞞の中で経験するであろう、分離した体験・・

この意識が認識し、経験する体験こそが、その主体とは真の主体ではなくて単なる頭脳それ自体の思考に

過ぎないことを暴露している、そこにそれを体験している「わ・た・し」が残っているからである


この知覚と認識と言うこと、これらの主体である思考とは、マインドという二元分離し、主体と客体に分離し、観察者と観察

されるものに分離しているものであり、それは必ずや思考と感情と記憶であり、そしてその働きが知覚と認識ということなのだ

従ってくどいようだが

自己を認識し、自己を意識し、自己を感じ、自己を対象にしていると言うこと自体が、この主体とは「空間の意識・気づき」

では決してなくて、頭脳の記憶でしかないもの、物質の意識でしかないことを示している



真の空間である意識なら対象を客体として認識することもなく、その対象を認識している主体というものも

そこにはあり得ないからであると、

この非対象・非思考という意識こそがラマナ・マハリシ、プンジャジの言う空間の意識であるのではないか

この気づきの意識の特長とは、(この気づきとは)決して自己と云う他と分離した知覚や認識状態ではないと

推測している



対象が見えて、それを見ている私がいる

対象と分離した主体の意識と感覚があり

自分がそれを自覚し

自分がそして認識し、知覚し、記憶していること

これが頭脳という物質である「思考」の特徴ではないか

この物質の反応である思考を私達は「自己」私・主体と感じているけど、それは記憶であるものの反応に過ぎないので

はないか、それは意識でもなく気づきでもない、まして空間の意識でもない




自己感覚が残っており、

対象を分離して認識し、

この私が何かを知覚している、

そして言葉を使っている

言語でコミュニケーションしている、

感情があり、

思考が残っている限りは

それは真の私である空間の意識では決してなく

単なる物質にしかすぎないものである思考の記憶の反応であるに過ぎない




その私ではない私、物質にしか過ぎない「記憶・私」が

朝、ベットから目を覚まして「自分が目覚めたという」のである

そして夜、ベットについて「自分は熟睡した」「自分は夢を見た」というのである



この物質であり記憶の反応にしかすぎない意識は自分だと実感されてはいるけど

この思考であるものは無意識にせよ、日中の意識であるにせよ

眠っている状態でも、目覚めている状態でも、夢を見ている状態でも

それは空間の意識ではない、真の私の意識ではないと教えられている


私達の意識とは単なる物質の反応ではないのか








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