行為しているものは誰か
誰が行為しているのだろうか
このようなそういう質問は起こることが大切だと云われている
この行為しているのは誰なのかを
ニサルガダッタ・マハラジは「I AM THAT」の中で以下の様に述べている
どうして行為について話すのかね
あなたが行為をしているというのだろうか
ある未知なる力が行為をし
あなたは、あなたが行為していると想像するのだ
いかなる形であっても、影響を与えることのできないまま、
あなたは単に起きていることをみているだけなのだ。
あなたに責任があるのは、あなたに変えられることだけだ。
あなたに変えられることは、あなたの態度だけだ。
そこに、あなたの責任があるのだ。
観照者は「私は知っている」と言い、個人は「私は為す」と言うのだ。
「私は知っている」ということは、真実に反することではない。
それは単に限定されているだけだ。
しかし、「私は為す」ということは、まったく間違いだ。
何故なら、そこには為す人など誰もいないからだ。
行為者であるという観念さえ含めたすべてはひとりでに起こるのだ。
と、このようにニサルガダッタ・マハラジはいわれる
ここでこの行為と云うことと、同様にひとりでに起きているのだと云われていることに
感情や思考や欲望がある。
この不安や憎悪や恐怖と云った感情や想念は、この個体の頭脳に組み込まれている条件付けとして、ここの意識面に起こ
っていることであり
やってきていることではないだろうか。
この今、わたしがここPCの前で、考えていることとは、感じていることとは、願っていることとはこの個体の頭脳に
組み込まれている条件付けの結果として、そのように(又はこのように)考え、思っていることではないだろうか。
私達は私の感情や私の願いと云っているけど、この恐怖や不安はわたしの恐怖なのか、それともこの個体に組み込
まれている条件付けの結果として、この現在意識によって認識されたり、体験されているに過ぎないことではない
のではないか。
私達は私の人生と云い、私が生きているのだと云うが、本当に私が生きているのであろうか、それとも私が生きて
いるという「思い」の条件付けが頭脳の中でプログラムされており、その通りに思っているだけであり、事実は私が
生きているのでもなく、思うのでもなく、プログラムによってそのように思わされているのに過ぎないのではないだろうか。
私とはこの条件付けの結果によって生じているストーリー・物語を運ぶゲーム上の登場人物に過ぎないのではないのか
実際には、どこにも私の人生などありはしないのではないか、
私の人生と思う様に頭脳の中に、仕込まれ組み込まれた条件付けプログラムが発動しているのではないか
そのことに対しては、自分達はこの物質界に誕生する前に自分達の人生を選択したと思っているかもしれないけど
(実際に意識界に於いては惑星間、異なる宇宙間でも、次元間でもそのように事前に自分の人生を自分が望むように
プログラムしているということについて)
果たしてそうなのであろうか?
上位次元に於いて、行うこの物質界への誕生に際して、「自分の人生を選択する」ということ自体が
実は組み込まれているプログラムであり、これすらもある条件付けの一つであり、
マトリックス(現象世界・分離世界・自他の分離・時間空間・内と外の分離)を維持するための壮大なるマトリックス
の一つではないか。
それは丁度、夢から覚めた夢を見ているようなものであり、この霊界で、次の物質界の人生を設計し選択していること
自体が一つのより深い夢の一部、といえるのではないだろうか。
即ち、自分が生きているのではなく、自分の人生でもないのに、これを自分が生きており、自分が成長し、自分が
覚醒していく道程(時間)と錯覚する「より大きなマトリックス」の一部ではないだろうか。
私は生きていない
私の人生など、どこにもなく、これは、この人生は永い輪廻の全てに亘って続けられる条件付けられたプログラムである
映画の一部である、と云うこと
ではないだろうか
内面に於いても同じである、
これらのマインド(心)の働く領域内に於いて、即ち私の意識そのもの、この意識の内容の全てに於いても
私は思考しておらず、この私の思考・感情は、このある個体の頭脳に組み込まれている条件付けというプログラムが起動し
動き、内部と外部からやってきて、起こしている反応に過ぎないと思われる。
私が怒っているのではなくて、この怒りも、この欲望も、この恐怖も、この出来事も、全ては時間空間のなかでの
精密なる仕組まれたものであり、この条件付けられた頭脳に起きているプログラムが、正確に開陳している結果に過ぎない。
そして、そもそもこの「私自身というもの」が、この個体の頭脳に仕組まれた条件付けが起こしているゲーム上の
プログラムの反応に過ぎないのではないだろうか。
私というものは、果たして存在しているのであろうか。
それとも、この「私という自我」は大いなるプログラムによって使われているこのプログラムの一部であり、
上映されている映像の一部そのものなのではないだろうか。
そういうことであるのなら
一体誰が行為し、誰が思い、誰が悩み、誰が苦しみ、誰が欲望し、誰が不安を抱き、誰が憎み、誰が殺戮し、
誰が恐怖し、誰が祈り、誰が怒り、誰が心配し、誰がイライラしているのであろうか、
一体苦しんでいるのは誰なのか?誰が考え努力しているのか。
それは私ではない、その恐怖が恐怖を認識し体験し感じているのだ
それらの苦しみが苦しみを体験し、見て認識しているものを生み出したのではないか
その憎しみが分離して、(自らを分離させ)対象である憎しみと、(偽の主体であるところの)その憎しみを見て、
何とか愛情深くなり憎しみを持たないようにしようとしたりする(努力する)「自我」を生み出したのだ。
それらの心(マインド)の作用というものは、この個体の頭脳に組み込まれた条件付けによってプログラムされて
いるものに過ぎない。
そういうことであるので
プログラムが生み出した自我という(「プログラム上の主人公」)ものが、そのように条件付けによって思わされ、
感じさせられ、考えさせられ、自分が生きて行為しているのだ、自己が考えているのだと錯覚させられ、自分が恐怖して
いるのだと思わされている
ということに過ぎないのではないだろうか?
この願いとは、この欲望とは私が願っているのではない、私が欲望しているのではない。欲望が単に起こっているのだ。
その願いが起こるように条件付けられて、このように思考が起き、その結果として行為が起きているのである。
この恐怖は、私が恐怖しているのではない、この恐怖がこの個体に起こるように条件付けられており、そして、この
恐怖がこのような、その恐怖を起こすような状況下にて、このように起きているということに過ぎない。
この不安は、この憎しみは、この考えは、この感情は、畢竟するに、私が憎しみ、私が不安し、私が考えているのではない、
この個体のこの頭脳に、条件付けられいるプログラムが、決められた時期に発動してその思考や感情や想念が単に起きて
いるのに過ぎない。
ではこの条件付けられたこの頭脳が感覚を通じて認識している肉体や出来事や運命はどうであろうか?
この私の肉体の健康や病気や、そして私の運命など、
そして私に起きている環境や出来事は真の私に関係しているのであろうか。
それともこの外部であると思われている、肉体の状態や、誕生や死亡そして病気・健康も、そして運命や出来事、結婚や
離婚や、出会いや、別離や多くの出来事も、同じように、決まったように起きるように、出来事が時間と空間というスク
リーンに条件付けられて開陳されていることなのではないだろうか。
、
ニサルガダッタ・マハラジの云われているように、もし行為が単に起きていることであり、私は行為していないということ
であれば、この自分が行為していると錯覚している「私」とは一体何なのであろうか
この「私」とはこのプログラムによって、この条件付けによって、このプログラムを維持し推進し支える為に「自分が存在」
しているように思わされ、思い込まされているプログラムによるゲーム上の役者に過ぎないのではないだろうか?
真の私はこの「私・自己」に関与していないと云われている。
真の私はこのプログラムによって発生している「私・自己」には全く関与していないと云われている。
真の私はこの組み込まれた、条件付けによって発生している憎しみや暴力や悲しみや不安や恐怖には一切関与していない。
これらは単なるプログラムであるに過ぎないといわれている。更に平たく言うと
私は、この頭脳に組み込まれ、外部に投影している肉体や運命や出来事や起こっていることには一切関与していない
これらは単なる頭脳を通じて投影されている映像にしか過ぎない、といわれている。
私は、このシステムを維持し支えるために仕組まれ輪廻しているゲーム上の役者である「私・自己・自我」ではないと
云われている。
私とは、これらは単なる頭脳を通じて投影されている映像を支えるための出演者である「私・自己」ではないと
云われている。
実際のところ此処までは私にも推測できる、実際にはこれらの仕組みを看破しているわけでもないし、理解している
わけでもない。これを見ることの出来る「目」が開眼していないからだ。
虚偽を虚偽と見るためには、見ることの出来る「目」が前提である。
であるので、盲目である私は、ただ単に誤解しているのみである。
知性や理性や言葉や概念でもって理解し判るということは、全て誤解する、ということであり
思考などのマインドである二元性でもって、この二元性を超えた「意識」に接近しようとしていることとは冒涜でもあるので
私にはここから先は進むことは出来ない
私・自我である二元性、分離性、そして時間であり自と他の分離であるこの「わたし・マインド」は此処の
二元性から非分離性・非二元性・全体性なるものを見ることは出来ない。
それはこの私にとっては未知なるものであるからだ。
多くの覚者によって云われていることは
虚偽を虚偽と見ることが出来ることが恩寵であり
幸いならば、此処までが私達の出来ることであるからであり
このことを前にして私達は動けず、動かないことであり
何もすることはなく、何もすることも出来ない、と思われるのだ。
全てを完全に感謝を持って受容することが出来るだけである。
沈黙し、何もしないこと、動かないこと、全てを受け入れること。
静かになることだけが、全的に受容することだけが
できることなのではないだろうか。
そして更に
「この沈黙し、何もしないこと、動かないこと、全てを受け入れること。
静かになること、全的に受容すること」を行おうとする者こそが
マインドの自我である
偽の主体である。
これこそが受動的に凝視しようとする「主体と客体の分離を起こしている者」である。
のではないだろうか。