あなたが霊的指導者だったら
もし、あなたが自分の霊的指導者だったら
自分をどう導くだろうか
先日、上江洲義秀先生のお話の中で、かなり昔のことを話されたのだが
ある時、癌の方が上江洲義秀先生を訪ねてこられて来たという、
そして
癌を治療してくださいと、緊急で来られた時のことであった。
先生がその方から癌を取り除こうとしたとき
その方の、指導霊・守護霊(もしくはハイヤーセルフ)の方が出現され、
癌を治療しないようにと、先生に言われたそうである。
そして、その守護されている霊的指導者はその理由を一瞬のうちに上江洲義秀先生に示され
その方の成長にとって一番良いこととは早急に死を迎え、幽界に移行することが、
本人にとっては一番良い方法であることを
示されたそうである。
話は飛び、
先日の笹塚の会の時のこと、ある人に先生がヒーリングをされているとき
その方に「リアリティー・実相世界」がやってきて、
その方がそこに入って行きそうになったのを上江洲義秀先生はご覧になり
そのことは、本人にとっては早すぎることであり、
自我の終焉を迎えていない状態・段階での、その高次な体験は、
その体験をしてしまうことが、本人の成長にとってはマイナスとなり
かえって、自我を強化してしまうことを、「即座の理解」でそれを先生は読み取り
その体験をあるところで、ストップさせたという。
が、しかし本人には在る程度は体験の余波があり
そのワンネスの状態、平安、歓喜、一体感、完全なる状態を少しは知ることが出来たという。
この体験は本人にとってはそれが通常の意識状態での知覚する世界とは全く異なる世界であるので、
大変に貴重な「リアリティー・実相体験」であったことを話されていた
以上のことからも私達にも理解できるように
この私達が、自分の真我とは言わずとも
私自身のハイヤーセルフであるなら、もしくは守護する霊的指導者であったら
一体
自分自身にどのようにするだろうか
どのように私を導くだろうか
あなたがもし自分の守護霊であるならどうするか
この自分をどうしようもない、我が儘な「だっだこ」にして、
少しも真我に向かうことをしない、
「駄目おとな」にするだろうか
欲望にとらわれ、欲望の虜になって、お金に取り囲まれた
金銀財宝の中で虚しい人生を送らせるだろうか
願望ばかりに終始、拘泥して、少しも他の人間や動物、植物の存在すら忘れるような、
利己主義者へと、
この可愛い子供である自分を導くだろうか
愛を与えることを忘れて、神を利用し、人々を利用することしか考えない、
愛のない人間へとこの最愛の自分を導くだろうか
そのような日中に考えることは自分の願望の成就だけで、
「愛という全体性の自分」の存在しない、
「素晴らしい空間」を体験することのない、
偽の空間へ、そのような利己主義者へと
自分を導くだろうか
利己的な願望の、又は利己的ではない願望と思いこみ、自分の事ばかりを気にして、
少しも、「より高次の与え尽くすという愛」へ、「素晴らしい愛の空間へとワンネスの空間」へと入ることのない
自分の願望ばかりを気にする、自己関心に捕らわれた人間へと自分を導くだろうか
勿論、この真我へと向かう道の過程では健康がなければならないので、それも必要だが、
それは必然的に与えられるであろう
しかし
当のご本人が全く間違った道を歩んでいる場合は
ある時は軌道修正をさせるため、
又は、間違った違う方向へと進んでいることを気がつかせるために、
あえて病気などが必要なときも在るに違いない
此処でキルゲゴールの言った言葉が思い出される
本当の罰とは、何だろうか、
最悪の殺人者に与える最高の刑とは、
死刑だろうか
キルケゴールは言う
その罰とは
最高に恵まれた金銭の裕福な家庭に生まれ、
最高の恵まれた美貌の肉体に生まれ、
そして最高の才能に恵まれ、
最高の文句のない奥様と旦那と子供に恵まれ、何不自由なく、
順風満帆の一生を終えること
何の自己探求も、自己発見も行われることなく
これこそ、真の罰であり、地獄であると
だから通常の地獄は地獄ではない、なぜなら自分を良くする気づきのチャンスも在るからだ
それに反して
もっとも厳しい地獄とは
自分の欲望と願望が満たされ、
何不自由なく、健康で
金銀財宝の山のなか、
霊的な成長の道が遠のくこと
これが、真我への道での一番大切な「気づき」の可能性を自ら忘れた状態の、
本当の地獄であるとキルケゴールは言う
世界を得たとしても、自分を失ったら何の人生であるのか、
真我への成長の道を失ったら、この人生に価値はあるのだろうか
自分が、「本当は存在していない」という、
「存在していなかった」という「真実」から、
もし、遠ざかってしまうのなら
神や天使と会って、
自分が幸福になったとしても
その幸福とは一体何の意味があるのだろうか
「自分と知覚し認識される自分は、真の私の外部である」、
この理解がやってくることこそ
外部のあらゆる事より重要なのではないかのか
外部とは肉体・環境・家庭・仕事・思考・感情・そして「主体と思われているもの」である
だからこそ
夢の中で生きるよりは、
この本人そのものであり、この愛そのもの、光そのものへと
そして観照者のもとへ、
真我のもとに戻ることこそ
最重要なのではないか
全体性に、非二元性に、非分離性へ
私たちは一体であること、神そのものであることを
その中に、その絶対なる中に戻ろうとすることこそが
私たちを指導されておられる、方々、霊的指導者の願いではないのではないか
又それこそ
私たち自身のハイヤーセルフの願いでもあり
観照者、真我、全ての願いではないか