見るものは見られるものである



これは何を指し示しているのだろうか
これをマインドの考察から追ってみたい

見るとは
根源がこの単体である肉体の感覚と知覚を通して現象界をみていることなのではないだろうか

ということは
根源が意識の座に於いて、そこを吸収し収束する点として、
その為に観念である自我が作り出されて、
そこの条件付けを通じて、カルマ・ワサナが作り出されて
この現象界で自分自身を体験し認識しているのではないだろうか

また言い方を変えれば

根源が作り出した意識の座は私という錯覚を作り出し、
そしてその「自我」は「想念創作物」でしかないので、それは幻想ともいえるので、
即ち私という見ている主体がないのに、見ていることは起きているので、
本当の見る主体は根源であるといえる

その状態は

「見るものは見られるものである」だ

飛躍した言い方をすれば根源が根源自体の表れを見ているとも言えるのではないか

これを書いているが
自分にとって、これは理論的理解であるので、実際の体験ではないことを申し上げておきたい、
これは知的な理解である

さて、この状態を詳しくすると

この意識の座に昇ってくる「私の出来事・私の肉体・私の頭脳・私の知覚・私の感情・私の思考・私の体験」は
実はその「私」を取り除いたもの
この意識に昇ってくる「出来事・肉体の状態・頭脳の状態・知覚の内容・感情の内容・体験そのもの」であり

「私の」ではない

それはこの意識の座に訪れる単なる「出来事・肉体・頭脳・感情・知覚・体験」であり

それらが起こることにはこの意識の座には一切関係ない

意識の座にただ単に起きているのである

ただ単に起こっているのである

全ては根源からである

起こっている

全ては


輪廻転生している本体であるこの自我が
単なる作られた観念であり
錯覚であり存在しないなら、
(その転生している自我は意識の座に現れる一つの想念である)
根源しか存在しないのなら

事の真相は

それは根源が
この肉体の目や感覚器官を使って、
条件付けられた脳を濾過してアウトプットされた知覚情報を
意識の座で受け取って「知覚」「認識」「体験」は発生していることになる

その認識と知覚の課程に於いては
何処に自我であるわたしは関与しているのだろうか

わ・た・しは何処にも関与していない

実際は

根源がこの意識の座を使い知覚し認識し体験している
知覚する主体は私ではない、私というものは単なる幻覚であるので、主体は存在しない
認識する主体は私ではない、私そのものが錯覚の存在であるので、その主体は存在しない
体験する主体は私ではない、私そのものが存在していないのだから、その体験主体は存在しない



見る主体が存在していないのであるから

「見るものは見られるものである」

と結論づけられることができる


私はいない
自我は存在しない
だから「見るものは見られるものである」

輪廻転生しつづけるこの私は、いるように見えるが
それは根源が作り出した、想念形態の凝縮物・意識体

根源が現象界を認識するための意識の座が作り出した想念であるといわれている


実際は
根源しかいない

全体は根源なのではないだろうか
根源が全て
根源はひとつなるもの

なのではないか



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