上江洲義秀先生は分離していない目で人を見ている、世界を見ている
彼は良く言う
私を憎んで、私に敵対してきた、その人が私自身である、と
また彼は
世界を分離してみていないと、いう
私はその見ている人、そのものであると、光一元の中で全てと一体であると、いつも言う
彼は
また、バイブレーションを調整して、私達と同じように、分離してみることも出来ると
しかし、意識の焦点をまた戻すと、自他の分離のない状態に見え
一体の世界になると
久保栄治さん、あなたはこの状態を想像することすら出来ませんよ、と
良く言われる
いまこれを書いている私、読んでいるあなたは、今、現在どうだろうか
分離性に捕らわれているだろうか
自他の分離に縛られてはいないだろうか
見るものは見れるものと別と思っている状態にあるか
自分の中身は、マインドであり
マインドがここに去来している
そして
このマインドは、肉体と同じように、取り巻く環境と同じように
私にやってくる、
私が作ったのではない、私にやってくるのだ
自分の中身をよく調査すれば、
私は思考と感情と想念と、感覚と、記憶であるが
それは全て自分が選んだのではない
外部から内部に、やってきたのだ。
それが自分の中身である、
それらを総称してマインドといってもいいが
それらは、ここにやってきて、私と自己同一化してしまった。
それらは、やってくる、私として。
思考も感情も想念も、考えも、エゴ意識も、自意識も、肉体も病気も、幸せも、不景気も景気も、環境も、出会いも、体験も、経験も
全ては
やってくる、
そして自分とおもわれてしまう
そして自己同一化してしてしまい
自分がその想念になり、自分がその感情になり、自分がその肉体になり、自分がその願望になり
そして、そこから逃れようとしたり、願ったり、探求したり、悟ろうとしたりする
そのマインドも、この肉体も私ではない
私にはどうすることも出来ないのだ、
何故ならそれらは私ではないからだ
やってきているのだ、ここに
私は選択は出来ないのだ
選ぶことは出来ない。
選択する余地が無く、その感情や、その思考や、想念や、出会いや、出来事や、環境や、仕事や、肉体がやってくるのだ
選択の余地は全くない
それらはやってくる
私の内面はマインドに完全に占められている
私にやってくるものは全て外部からだ
私の内面は外部からであり、私には自由意志もなく、選択もない
私は行為者ではない
これが真実だ
さて
この私という感覚はこれら外部からきたもの(マインド・肉体)との自己同一化によってもたらされたものである
とニサルガダッタ・マハラジはこの辺を詳しく説いている
ニサルガダッタ・マハラジ:
個人とは単なる誤解の結果だ。
実際にはそのようなものはないのだ。
果てしない連続性の中で、
感情、思考、行為が脳の中に痕跡を残し、継続性という幻想を作りながら、
見守るもの(観照者)の前を駆け抜けていく。
マインドの中で、見守るものの反映が「私」という感覚を作り出し、
個人は一見独立した様に見える存在を獲得するのだ。
実際には個人というものは存在しない。
只、見るものが「私」と「私のもの」に自己同一化するだけだ。
・・・・・師は見守るものに言う。
あなたはこれではない、この中には、見守るものと彼の夢を橋渡しする「私はある」という小さな点以外、あなたのものは何一つないのだと。
「私はこれだ、私はあれだ」は夢なのだと。
観照者が真我につなぐ、橋渡しである
観照者の発見こそが、真我へと繋ぐ
しかし観照者は自分では発見できない、とも言われる
また、彼は言う
“解放とは、決して個人が解放を得ることではなくて、個人という実体から解放されることなのだと”
自分が自由意志のないこと、行為者ではないこと、
マインドと肉体はここにやってくることを知ったなら
ニサルガダッタ・マハラジは言う
“いつであれ、欲望や恐れについての思考や感情がマインドに現れたときには、
ただそれから注意をそむけなさい。
ただ、目を背け、思考そのものではなく、思考と思考の隙間を見なさい。
もしマインドと闘えば、あなたは闘いを招く、だが抵抗しなければあなたも抵抗に出会うことはない、
ゲームを止めれば、あなたは無関係なのだ。
マインドはほっておきなさい、それについて行ってはならない”
“知覚するものに巻き込まれた観照者が個人なのだ。
超然と離れて動じない観照者が実在の見張塔であり、
それは非顕現に固有である気づきが顕現に接触する点だ。
観照者なしに宇宙はあり得ない。宇宙無しに観照者はあり得ない。
・・・・
質問者:
人生の中で個人が観照者になる時点がくるのですね
ニサルガダッタ・マハラジ:
そうではない個人が観照者になることはない。
個人は気づきの炎に触れない限り、無知の闇に留まることだろう。
質問者:
誰がそれに炎の火をともすのでしょうか
ニサルガダッタ・マハラジ;
グルだ、彼の臨在だ・・・・ひとたびろうそくに火が灯れば、炎はろうそくを燃やし尽くすのだ
・・・・気づきは高次の次元からやってくのだ。
質問者:
火花が点火される前と後では何が違うのでしょうか
ニサルガダッタ・マハラジ:
火花が点火される前には、違いを知覚する観照者がいない。
個人は意識しているかも知れない。だが、意識していることには気づいていない。
個人は考えること、感じること、体験することと完全に自己同一化している。
個人と観照者との違いは、自分自身を知っていることと、知らないことにある。
そして、この観照者は真我へと続く
ニサルガダッタ・マハラジ:
・・・・実在を見るという状態はないのだ。
誰が何を見るというのだろう?
あなたは実在として在ることが出来るだけだ。
いずれにせよ。あなたは実在なのだ。・・・偽りの概念を放棄しなさい。それだけだ。
真の概念など必要ない。そんなものは無いのだ。
・・・・
不死とは「私はある」という感覚からの自由だ。しかもそれは消滅ではない。
その反対に、それはあなたが思い描く以上に限りなく実在で、気づいていて幸福だ。
ただ、自己意識がもうないだけなのだ。
そして更に続く
質問者:
個人が去り、ただ観照者だけが残ります
ニサルガダッタ・マハラジ:
誰が残って、「私は観照者だ」というのだろう?。
そこに「私がある」がないときに、どこに観照者がいるというのだろうか?
時を超えた状態の中に自我が隠れる場所はないのだ。
・・・「私はある」の感覚を大切にしている人には、自意識がある。
ジニャーニは何もつかまない。それ故意識しているということは出来ない、
しかも彼は無意識でもないのだ。
彼は気づきの本質そのものだ、
空を身に纏い、
全ての現れを超えた裸の人だ。
彼がそのもとに存在すると言えるような名前や形は何もない。
それでも彼は唯一、真に存在する人なのだ
質問者:
観照者は実在でしょうか、それとも非実在でしょうか
ニサルガダッタ・マハラジ:
その両方だ。
それは幻想の最後に残るものであり、実在の最初に触れるものだ。
「私はただの観照者でしかない」ということは、偽りであり、真実でもある。
それは「私は在る」ゆえに偽りであり、観照者ゆえに真実なのだ。
「そこに観照者がある」と言った方がより確かだ。
あなたが「私はある」といった瞬間、宇宙全体がその創造者とともに存在の中に現れるからだ。