肉体のことは肉体に任せよう

昨日の上江洲義秀先生の会で波動水なるものの販売の方が入らしていて、その商品の宣伝をされていた、「上江洲先生には心のことを任せて、私には肉体と物質的な幸せを任せて下さい」云々と

それを聞いていて私には、この方の理解がとても寂しい段階のものと思った、

肉体とは本来は真我の表現体であり、現在はマインドに乗っ取られており、実際は「存在しない自己・自我」と同一視されているけども、肉体自身は素晴らしい叡智そのものであり、それ自身は大いなるもので生かされていると思う

なのに、現状では、それをマインドである私達自我・エゴが占用する事により病気になったり不幸になったりしているだけで、
その肉体に思考やマインドが干渉しなければ、それ自身の叡智できちんと健康が保たれ、寿命が来れば崩壊するようになっているとおもうので、それに対しては何もマインドからの干渉をしないことが一番のよい方法であると思う。


真我が実現した場合は
その真我の影響は勿論非常に大きく及ぶので、一番近くにいる肉体は当然、真我の表現体であり、真我が物質界にて使う一部分になるので病気になるはずがない。

また環境にしても、その真我の影響は強く遠くにまで及び人間関係、職場、近隣や隣人にも真我の影響力・パワーが及ぶことであろう

さて、そこで
その方の言う「肉体のことは私に任せて下さい」、は全くのナンセンスで、「肉体のことは肉体に任せる」若しくは「肉体のことは真我に任せる」が正しいと思う。

それに私達にとっては刻下の焦眉事項は自分を発見することではないだろうか、真我を思い出すことであり、それに反して肉体への関心を持つことは、大きく焦点をはずして、道をはずすこととなる。

私達は肉体や、仕事や、環境や外部に関心を持つべきではない、「私は誰か」これだけに没頭すべきである、なぜなら自己を忘れてはいかなることも虚無であるからである、虚しく主客転倒である。

であるから
私にとっては、その健康販売のことや運命好転、健康成就、願望成就、能力開発、運命好転、占い、チャクラの開花、第三の目の開発などのことは、全て間違った捉え方をしている。
一番焦点を当てるのは「真我へ」なのだ
真我こそが生きるか死ぬかの大問題であるべきだとおもう
それが枝葉末節に目が向いているから
そのような事に関心が移ってしまうのだと思われる。
再度言うが
大事なことは何なのかが、その人にハッキリ理解していないので、そのような間違った関心に目が向き、道を大きく外れてしまうことになるのだ、

今一番大至急することは、
行うことは「私は誰か」である、真我を思い出すことこそ、これこそ生きている理由であり目的なのだから、それを外してしまうことを避けるべきである

もっとハッキリと言えば、
いくらあがいても、もがいても、努力しても、決してどうにもならないのだ。
肉体は私達のコントロール下にはない。
また運命も、能力も、チャクラも、出会いも私達の自由にはならない。私達は行為者ではない。
コントロール下にはない。

更に深く考えれば私達の思考、感情、想念、記憶、行動、気分、自己関心など全ての全ても完全に自分のものではない、それらはマインドのものだ。
それが私達を支配しコントロールしているので私達には、どうあがいてもなるようにしかならないし、起こるようにしか起こらない、それは完璧な叡智が完全に行っている現象世界という劇場なのだ。その登場人物こそマインドが作った幻想の我である、そして今の意識であり、私という虚偽なのだ、二元性なのだ。

だから
あがくべきではない、受け入れるのだ。
そして肉体のことは肉体に任し、自分でないマインドのことはマインドに任せて、
自分というマインドが作り出した虚構の観念・概念・感情・思考・知覚・経験・記憶に対しては「それは自分ではない」「その自分は私ではない・真我ではない」とハッキリさせるべきだ。


私の認識・感覚・思考・感情・記憶・知覚・そして体験や経験は全てマインドの範疇にあり、二元性と分離性そのものであり、それは私ではない、真我ではない。とそうおもうべきだ。

真我に戻ること、思い出すことが私達に、今一番刻下の急務である





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