主体には客体は存在しない
これは先日、ある友人のホームページに書いてあった言葉であるけど、それを解説すると次のようになるとおもわれる。
客体があるところには主体はない。
本来、主体には客体は存在しない。
(内と外、内部と外部という区別、自と他という区別・分離はないということか)
心には客体というものがあるので、それは主体ではない。
マインドや自我・自己という「主体」には客体(見るものと見られるものとの区別)があるので、それは主体ではない。
しかしそれは通常は間違って主体と言われている。
けれど、
それは、決して主体ではなくマインドである。
それは心にしか過ぎない、自我にしか過ぎない、自己にしか過ぎない。
自我・自己は主体ではない。心は主体ではない。マインドは主体ではない。五感覚は主体ではない。
それらは主体ではない。主体と客体の分離があるからだ。見るものと見られるものとの分離があるからだ。
自己・自我が有り、思考があり、感情や知識や言葉や記憶や制限された感覚は主体ではない。
(それらは全て「見るものと見られるものの分離」「主体と客体の分離」から成り立っている)
「主体には客体がない」からだ。
客体があったり、対象があるとき、その時そこには主体はないことだろう。
その時、それは主体ではなくて自我であり、自己に過ぎない。真の私ではない。(と言われている)
主体であるとき、そこには対象や客体はないことだろう。
そう言うことであるので、通常の日常の世界の中で
客体として、外部には世界や、宇宙や、身体や出来事が、内部にはマインドや感情や自己や他己といわれるものが、対象として認識され、覚知され、経験されるとき
そのとき主体に付着している二元性という「言葉や知識や記憶や情報やその反応」があり
分離している知覚があり、それらの対象認識をする感覚(五感)を間違って自分の感覚と錯覚し、
主体は二元・分離というマインドに覆われてしまっているのだ。
(主体と客体の分離であるマインドに覆われている結果として、対象としての自己や世界が出現している)
その時、意識しているのは、その覆われてしまっている主体ではなくマインドが意識されているのだ、だからこの意識は主体の意識ではなく、マインドの意識だ、けれども真の意識とは観照だと言われている。真の私である主体の意識は観照だと思われる。
なのでそれらの現在の意識とは偽の主体であるところの心であり、思考であるに過ぎない。
この偽の主体、それが自我という私であり、思考であり、感情であり、言葉であり、知ることであり、経験することであり、認識することである。それがこの意識である、眠っていると言われているこの意識と呼べない現在意識である。
そしてこの主体ではない「自我という私」が対象という客体を作るのだ
若しくは、客体がこの「客体の意識であるマインド」の自らを分離し、偽の主体と言うものを創作したのだ(と言われている
では、もっと詳しく見ると、この客体を作る自我とは何だろうか
思うにそれの特徴の100分の一でも挙げれば
■「自分は無にも等しい、取るに足らない存在」なので、ひとかどの者になろう、より立派になろう、進歩しようとすること
■「自分の中には安定や安心がない」ので、その安心や安定や安全を常に求め続けているということ
その安定を実現し、安全を築くために、その安全や安定や安心を実現する為の手段として「神?!」というものを崇拝していること
(極端な話し、それは別にその満足を果たすためには「神?」というなまえのものを利用しなくても、他の何でも構わないのである、単に「安定成就」という自分の欲望に神という名前を付けているのであるから、真の神という主体とは全く関係が無い)
■「自分の中には平和がない」ので、恒久に安定している平和というものを希求している
■常に自分も他人も非難し、比較し、評価し、選択し「あれはこうだが、私のほうがもっと深くて正しい」「あいつは間違っている、真実はこうなのに、あいつは何も分かっていない、レベルが低い」「この道の方があの道や方法より、もっと次元が高い」「私のグル・神の方があいつの神よりもっと優れているのに」「私は悟っているのにおまえ達は悟っていない」などとこのマインドの「非難・批判・判定・評価・選択」という術中に陥ってしまうこと
■「自分は何者でもない」ので、常に何かに至ろう、覚醒しよう、真我に至ろう、悟りを開こうとして努力し、模索している
■常に時間に縛られ、時間以外のものを想像することすらできない長い輪廻を繰り返している自我は、時間を超越しているものを希求し、輪廻から超越したいと思っている
けれど、今というものは思う事も、想像することも出来きず、同じく無限という空間も思う事も、想像することすらも出来ない
何故ならそれらの「今」や、無限の空間というものは思う事や想像する事も出来ないものであるからだ
それは客体を伴っている思考には、全くもって不可能なことだからだ。
従って、「今」であり、「無限の空間」である主体というものを、マインド・自我の特徴である思う事や、想像する事や言葉や理性や知性や知ることや理解すると言うことの二元性の網では捉えることは全く出来ない
思ったり、考えたり、思い出したり、想像したりすることがマインドである自我の働きであり、特徴であるが
その働きこそ、客体というものを創り出す、偽の主体(マインド)の働きであるからだ。
本当の主体は、そう言うわけで、決して思ったり、考えたり、想像したりはしない。「ただ在る」と言われている。
(しかし、「ただ在る」と思考したり、想像したりすることは「ただ在る」状態ではなくマインドの模倣演技・まねごとに過ぎず、虚構である)
この思考や感情や理性や知性とは主体の働きではない。
それは主体ではないところのマインドという私・自我のすることだ。
この思考や感情や理性や知性などの「常に自分と何かとを一体化して、私は〜だとする、私は〜になる」というマインドという自我の働きを、
じっと受動的に言葉を使うことなく凝視され、(その100分の一だけでも)
瞑想により沈静し、静かになり沈黙するとき
そこへ本当の沈黙がそっと招かれもしないのに姿を現しているかもしれない
と覚者方はいわれている。