現在の私とは どの私であるのか?
現在のパーソナリティーとは、どのレベルの私であるのか?
そのとき、
どのレベルの私が主体であるのか?
それこそが肝要なることである。
現在の私とは?、
私という主体とは、どのレベルの私なのか?
この現在のパーソナリティーの私とは、一体どの私であるのか?
この私とは、どのレベルの私であるのか?
現在の私とは、どのレベルの私が「私」、主体となっているのであろうか?
記憶の反応である自我が優勢なる状態となってしまっている現在のパーソナリティーであるのか?
それとも
この現在の私は、ワサナなどのエレメンタルに影響されてしまっている現在のパーソナリティーの状態であるのか?
現在のパーソナリティーが魂の意識との繋がりがより緊密になっており、その魂の意識をより自覚し始めている、ところの
観照状態の意識、この意識状態が現在のパーソナリティーの状態であるのか?
更に進んで
純粋意識である魂の意識と現在のパーソナリティーが繋がっている状態の私であるのか?
そういうことであるからして、
現在のパーソナリティーがどの主体であるのかは
この現在のパーソナリティーである私が一体何を対象として見えているか、感じているのかで分かる
それが現在のパーソナリティーのレベルを表現している。
見えている対象が見ている主体のレベルであるのだ
内部と外部に見えているその対象が、見て体験している「その私」のレベルを正確に表現している
何を見ても愛を感じ、嬉しくて、有り難くて、感謝に満ちているとき、その時現在のパーソナリティーのヴァイブレーションは
上昇しているし、魂との繋がりは良好な状態であるということだ
それに反して、
何かにつれてひょっとしたことで、イライラしたりして、他人から何気なく言われた言葉に苛立って
反応してしまっているとき、その時は、現在のパーソナリティーのヴァイブレーションは極度に下がっている。
個我である現在のパーソナリティーが自我と同一化しているからである
だから何かにつれて、自我の反応を意識したり、又させられたり、自我のことを「私」と感じている場合は、
それを感じている者が自我であり、その時の主体とは、・・その時の私とは自我なのである。
自我と「個我である現在のパーソナリティー」が混合している状態なのである。
或る状況が訪れたときに、無意識的に、決まったように、動揺したり、知らずに怒鳴ってしまったり、落ち込んだりする
その記憶の反応ということを自分の反応だと感じている場合の私とは、
そのときの私である主体とは、その私とは「記憶の反応」なのである。
その記憶自身が、記憶の反応のことを「これが私なんだ」と感じて、
「自分は何でこんなに感情的なんだ」とか言っているのである。
自分の事を、非難し、判断し、善悪の基準でもって自分を判断したり、そういう意識状態の中で一生懸命に自己観察を
実践したり、
または、イライラしたりしている私を自己観察しているとき、
それは、自己観察ではなくて、実際には自己を非難しているのである。
この時の私とは、その時の主体とは、それは自我と現在のパーソナリティーが混合している私である。
だからこそイライラしている私を、同じイライラの私がイライラしながら自己観察しているのである。
しかし実態は自己観察はしていない、
その観察されている自己の状態とは観察している主体である私の状態でもあるのである。
これは内部だけではなく外部にも適応される
自己の内部は正確に外部に対象として認識されるから
自己の内部に自我がないとき、誰のことも愛の人として認識される、
どの他人にも自我は発見されないからである
この「私が魂の内奥の私である」とき、いかなるものも完全完璧な私自身に感じられることだろう
だから、もし、本当に自己観察しているのならイライラしている私は発見できないのである。
自己観察が出来る私とは魂と深く一体となった私であるからだ
何故なら、
自己観察しているときの、そのときのその現在のパーソナリティーの状態とは、
決してイライラ状態ではないからである。それは観照状態であるからだ。
そのイライラしている自己を自己観察していると思っているときの、その観察している私とは、
その私によって見られているイライラしている私であり
そのイライラの私が自己観察していると思っているだけの状態なのである。
そういうときは、その私を見ている私とはサングラスを掛けられている私であり、
見られている自我や、思考や感情や衝動によって翻弄されており、
そう言う状態の中で、そこからいくら自己を観察しよう、観照しようとしても出来ないのは、
それは、その時のその自己とは、いくら自己観察しているつもりになっていても
自己観察していない自我として現在のパーソナリティーの私の状態なのである。
そのイライラのときは、
その観察されている自己の状態こそが、観察している現在のパーソナリティーのレベルなのであるからだ。
だからそう言うときは自由意志を行使し、意図的に努力して
現在のパーソナリティーの意識を魂の方へと向け直し、
その現在のパーソナリティーの出している波動を少しでも良い方向へ
とかえることが現在のパーソナリティーのレベルをアップすることなのではないか。
その現在のパーソナリティーのヴァイブレーションを自由意志でもって引き上げることができるということが
自己観察が出来る条件ではないだろうか。
私達は自由意志で意図的に努力して魂の内奥に意識の標準を合わせることができるのだ
だからイライラしている状態のときの現在のパーソナリティーでは自己観察は出来るわけがないのである。
自分の事を非難なく、愛情を持って、一体化することも、逃避もなく、評価もなく、
愛情を持って観察者と観察されるものの両方を無理なく観照しているときにこそ、
その時の私とは愛のある私であり、自我の私ではない。
現在のパーソナリティーが魂に近づいたのである。
その時、その観照している現在のパーソナリティーの私とは、魂と直列しているのである。
だからその時クリシュナムルティーの言われるように非難なく、判断なく、評価することなしに
あるがままの自分を見る事が出来るのではないか
そのあるがままの私とは、魂なのであり、
その時、魂の私が現在のパーソナリティーの私を吸収しているのである。
この私とは魂の私となっており、この魂の私が主体になっているからなのである。
であるから自己観察が出来るためには、現在のパーソナリティーの思考と感情と行為の質を高めて
ヴァイブレーションが上昇していなければならないのである。
自分なりでよいから愛を与え続けるのである。
この愛が純正ではなくても、愛もどきであっても、与えるということが最初のステップではないだろうか
全ての人を私自身として見て、
それを実際に感じているとき、
その感じている私とは、そのときのその私の主体とは真の私であり、真の私が顕現し、
真の私が主体となっているのだといわれる。