わたしはマトリックス


私の名前はマトリックス

私はマトリックス

マトリックスが私である。

このマトリックスであるわたしの最大の特徴は

対象を持っていること、

そしてこの対象をもつということが思考であり意識ではないということである。

思考している、思っている、そしてお喋りしているということは

これがマトリックスであり、思考であり、これこそが分離しており、意識ではないと云うことである。

従って「目が醒めていない私」は、なにも理解することができず、全てを誤解しているということである。

私は何も見ることが出来ず、私の見ていることの全てが錯覚である。錯覚を見抜くことができる目がないからである。

私が思う事、感じること、考えること、想像すること、行うことの全てがマトリックスの範疇であり、これらはすべてが間違っている。

私はマトリックスであり、マトリックスが私であるからである。

私の思うこと、考えること、記憶していること、感じていること、想像すること、行うことは全てがマトリックスという思考であって、意識ではない。



私は意識ではない、何故なら考えるから、考えているから、思うから。

私は意識ではない、何故なら言葉を使っているから、言葉を話し、言語を使って認識しているから。

私は意識ではない、何故なら対象を認識しているから。対象を感じているから。対象として波動を感じているから。

私は意識ではない、何故なら私と貴方の区別をしているから。

私は意識ではない、何故なら、私の内に世界が有るのではなく、世界が外にあると思っているから。

私は意識ではない、何故なら内側と外側を分離して、内部と外部が別々だと誤解しているから。

私は意識ではない、何故なら私は朝、目が醒めたから。朝に目が醒めたのは意識ではない、肉体の頭脳が醒めたのである、この肉体の頭脳意識は意識ではない。思考である。夜に寝て、眠りに陥り、夢を見て、朝に目が醒めて、日中継続しているこの「意識もどき」は頭脳の記憶であって、意識ではない、意識の目が醒めたのではない。

私は意識ではない、何故なら肉体と同一視しているわたしであるから、この私は意識していると思い込んでいる私であり、頭脳に縛り付けられているプログラムにしか過ぎない自我・私であるから

私は意識ではない、何故なら自分が行為していると信じているから。(行為は根源が起こしている出来事なのに自分が行為していると思い込んでいる)

私は意識ではない、何故なら目を持っていないから、目がないから。目がないので見る事が出来ないので虚偽を虚偽と見る事が出来ないし、人格を見る事も、自我を見る事も、魂を見る事も、マインドを見る事も出来ない。

私は意識ではない、何故なら生きていないから、輪廻転生を繰り返しているのは、意識ではなく根源によってプログラムされている「自分が生きて行為していると思い込むようにされている自我」であって、このプログラムされている「結果・自我」が自分の人生だと思いこむように仕組まれているのだから。

私は意識ではない、何故なら自由がないから。自由意志があり、自由に行為している、自由だと思い込むように仕組まれプログラムされているのだ。そのように錯覚しているだけであって、実際には自由もなく、自由意志もなく、行為もしておらず、全てはプログラムの通りに行い、思い、感じ、考え、欲望し、願い、失望し、有頂天になり、喜び、悲しみ、絶望し、歓喜し、そのような信念や信仰を持ち、思想を持ち、決意を持ち、それを自分がしていると思い込まされているのだから。

私は意識ではない、何故なら過去現在未来を認識しているから、即ち時間を認識しているから。

私は意識ではない、何故なら「今」に留まることができず、常に時間内を動き回っているから。

私は意識ではない、何故なら「此処」に、静寂に留まる事が出来ず、頭脳が作りだしている「全てが一つ」ではないところの「自他の分離という錯覚空間」を動き回っているから。

私は意識ではない、何故なら、「対象であるあなた」を認識しているから、貴方の形姿を認識しているから。

私は意識ではない、何故なら私は何処かに到達しよう、何かになろう、実現しようとしているから、意識とは既に実現しており「全てが一つ」といわれている。

私は意識ではない、何故なら「ただ一つなるもの」になろうとしているから。なろうとするものは既に在るものではない、従って意識ではない。

私は意識ではない、何故なら安定しよう、安全でありたい、完全になりたいと願っているからである、既に完全・安全であるものは完全・安全になろうとはしないはずだ。

私は意識ではない、何故なら私には個人という感覚が有り、全体そのものではないと思っているから。全体ではないのでエネルギーで区別したり、波動を計測したり、区分したり、等級を付けたりするのだ。そのように階位を付けたりランクを付けること自体が意識ではないことを証明している。

私は意識ではない、何故なら言語という分離しているものでもって認識しようとしているから、意識は言葉や言語を超越している。

私は意識ではない、何故なら知っていると思っているから、知るということ自体が知るものと知られるものの分離を前提にしているマインドであって意識ではない。意識は「知っていない」と言われている。知るという分離を超えているからだ。

私は意識ではない、何故なら知覚しているから、知覚自体が、知覚するものと知覚されるものという分離の上に成立している。意識の中には知覚するものも知覚されるものもないといわれている。

私は意識ではない、何故なら体験しているから、体験がある限り、そこには体験するものと体験されるものという分離がある、体験者がおり体験される対象があり二元と対立がある。意識の中には体験するものも体験される対象もないといわれている。

私は意識ではない、何故なら理解しているから、理解ということがある限り、理解するものとされるものの分離がある、二元対立がある、分離がある。意識の中には理解するものも理解する対象も無いと云われている。

私は意識ではない、何故なら正しい感覚ではない五感というものがはたらいているから。五感という感覚でもって自他の分離を引き起こし、聞くにせよ、見るにせよ、触るにせよ、嗅ぐにせよ、味わうにせよ、全ては対象として認識してしまい、意識の本来の感覚である全体としての、一つなるものとしての聞くこと、見る事、触ること、嗅ぐこと、味わうこと、と云うことがないからである。この五感はマトリックスの五感であり、意識の感覚ではない。

私は意識ではない、何故なら愛ではないから、自己や他己というものを別々に認識しているところに、どうして愛がありうるのだろうか。愛している私や、愛されている貴方が別々にあるところにどうして愛がありうるのだろうか、この私の中には分離しかなく、愛がないので、私は意識ではない。

私は意識ではない、何故なら静寂ではないから、沈黙していないから、

意識であるなら沈黙であることだろう

もし私が意識であるのなら「見るものは見られるものである」であるだろう

そして沈黙があることだろう

今此処に沈黙でないかぎり、見るものと見られるものがあることだろう

私はお喋りをしているマトリックスにすぎない。意識ではない。






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